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好きはファッションなのか

 noteをお読みの皆様、お久しぶりです。実に1年と3か月ぶりに文章を書いております。一体なぜ?と思い(なわけありませんよね、こんな底辺キモオタに興味なんてあるはずないしそもそも以前に書いたことあるの知ってる人なんてほとんどいませんから)かもしれませんが、私にもわかりません。時刻は午前3時40分、夜ご飯を食べた後に少し寝てしまったので目がさえているのです。あっ、すみませんどうでもいいことをつらつらと…


はしがき

 ―――好き。その形は様々で、家族、恋人、モノ、場所等々…令和では”オタク”はアイドルやキャラクターに熱中する人を揶揄するような悪口ではなくなり、現実世界だけでなくSNSなどを通じて気軽に自分がオタクであることを公言できるようになった。私もそんな”オタク”の一人であり、人生をかけて応援したい”推し”がいる。(ここでは名前を出しませんがこれを読んでいる方々からすれば周知の事実かと思います。ただ、変に検索されて私自身と交わらせたくないので…(手遅れだろ))

推しを推す以前のお話

 そもそも私は推しができる以前の人生で人を好きになる経験がほとんどなかった。小中学校でよくある「好きな人教えろよ!」的なノリも適当に答えて誤魔化してた。(適当に名前出した人すみませんこの場を借りて謝っておきます)だから「人を好きになる感情」というものが分からなかった。もちろん、小中学生がやりがちなうわべだけの恋バナとかにも興味があるわけがなく、野外活動や修学旅行で起こるそういった場面は適当に流してきた。
 そんなひねくれ者に転機が訪れた。もともと追っていたグループにのちに推しとなる人物が新メンバーとして加入してきたのだ。私はその子の容姿や言動に惹かれ、”推し”として応援することを決めた。

ここで少し余談、今では「推しは作るものではなく生まれるもの」というスタンスでオタクをしていますが、このころ私が追っていたグループ(今も同じグループですが)には単推しがおらず、箱推しとしてグループ全体を応援していました。Twitter(Xとは呼ばないよ)をやっている中で繋がってくれた人に推しがいるのがうらやましくて、この子可愛いなという気持ちと、私にも推しが欲しいという気持ちが半々、どうも生半可な気持ちで推し始めてしまったのです。

人を好きになる感情

 先ほど「人を好きになる感情が分からない」と言ったが、それは推し始めた当初も全然わからなかった。推すと決めた以上彼女のすべてを追うが「かわいい!」「おもしろい!」などとは思いながらも好きが何かよくわからなかった。初めて生身の推しに会いにライブに行った時も、「実在していて、とてもかわいかった」という理由で感動しただけでそれはわからなかった。ただ、これは今振り返ってみると、の話であって当時の気持ちが嘘だったわけではないし、そんな中途半端な思いで応援していたわけではない。

 そんな私が”好き”という感情を初めて自覚できたのは推し始めてから約2年後のこと。推しの初めての生誕ソロライブだった。登場して一曲目の歌を歌っている中、私はその姿を決して近いとは言えない12列目の席で立って涙を流していた。2年間みてきた子が一人でステージに立って歌っている、踊っている。やっとわかった。その時の私は紛れもなく「人を好きになる感情」であふれていた。心拍数はいつもより高い。この感情もやはり人それぞれで、言語化するのは難しいけれど、初めて感じることができた。ライブが終わった後もTLに流れてくる推しの写真を見るたびに涙を流していた。(重症?)この症状は2週間くらい続いたかな(笑)

 それからというものの、推しの見え方が少し変わったのかもしれない。なんかすごくよさげな書き方をしたけど、正しく言うと気持ち悪くなってしまった、すなわちキモオタとしてのレベルが上がってしまった、ということ。(さまざまな過去ツイ参照)

たまに陥る感情

 こうして「人を好きになる感情」を手に入れることに成功した私。でもたまに考えてしまうことがある。

オタクってファッションなのかな…?

つまり、「推しのことが好きでオタクをしている」のではなく「オタクをしている自分が好き」なのではないかということ。せっかく好きになる感情が分かったのにコイツは何をほざいておる…??という感じですが、本当に突然思うんです。私は何のために推しを応援しているのか、この好きという感情はどこから来たのか、、、推しを推す理由なんて「好きだから」で十分なのにそれ以上を求めてしまう。「別に今離れても何ともないんじゃないか」「生活から推しがいなくなったところでなんだ」とか、「今まで応援してきたものからくる義務感なのではないか」と思ってしまう日がある。私だけ!?

 でも、そんな気持ちをいつも引き戻してくれるのも推しだった。そんな気持ちになったときはいつも推しのブログを読み返す。独特なワードセンスと淡々とした、でもどこか優しい口調で展開されていく改行多めのそのブログは、何気ない一言でも私の心に突き刺さる。「私はこの人が好きだ」「それ以上考えなくていいじゃん」と思い出させてくれる。ブログだけじゃなくて写真や動画も見返したりする。見ているうちにだんだんと心拍数が上がっていって、それもまた私を引き戻してくれる。

 書きながら感じたけど、私は「辛い時に救われた」とか「たまたま見て衝撃を受けた」とかいう劇的な出会い体験はなかった。グループを追い始めたときも友達からのじわじわ布教でフェードインだったし、彼女を推し始めたのも最初に言ったとおり100%自然発生ではなく半分は出来心からだった。だからこそ今でもその反動でさっき言ったみたいな感情になるのかもしれない。でも、そうなったらまた推しが引き戻してくれる。何度でも。何度でも。一方的かもしれないが、そんな信頼があるのも、”好き”である一因なのかなー。

好きはファッションではない。”好き”以上を求めようとするな。


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