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さて、なかなか書く事を思いつかないので、単純に自分の好きなものについて書こうかと思います。どうせなら効率よく書こうという事で、好きな音楽と好きな映画についていっぺんに語りたいと思います。
そこで取り上げるのは、モーツァルトの「交響曲第25番 ト短調」と映画「アマデウス」、どちらも超有名です。いまさら語る必要がないくらい有名な作品ですが、作品語りと見せかけた自分語りなので長くなるかもしれません。(効率はどこへ行った)

私はいわゆるクラオタですが、どちらかというとゆる~いクラオタで、そんなにマニアックなタイプではありません。好きな曲や好きな演奏、好きなオケやソリストは存在しますが、いろいろ聴き比べて解釈したりベスト盤を選んだりするのは他人様にお任せで、あっこれいい、それもいい、あれもいい、とわりと節操ないですし、基本的に感想は「好き」と「いい」で済ませたいタイプです。
しかし今回は、どこがいいのかをちょっとだけ細かく語ろうかと思います。演奏については省略、とりあえず25番は曲の話のみです。そもそも演奏を比較できるほど、モーツァルトは聴き込んでいないのです。

元々私が好きなのは主にロシア系のクラシックで、モーツァルトは大好きとまでは言えません。それでも今はそれなりに好きなのですが、多感な10代の頃はむしろ苦手な作曲家でした。
苦手な理由は異様な「明るさ」です。モーツァルトの曲は明るい曲が多い。それもただ明るいのではなくべらぼうに明るい、尋常じゃなく振り切れて明るいのです。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の冒頭とか、ふざけてんのかと思うくらい明るいメロディじゃないですか。

私は小学校から中学校にかけて、唯一嗜んだ習い事がピアノだったのですが、バイエル、ソナチネの後はソナタに進み、モーツァルトのソナタも何曲か弾きました。
その中の第11番の第3楽章が「トルコ行進曲」という曲なのですが、こいつのコーダの部分がですね、気持ち悪いくらい明るかったんですよ。例えるなら頭の中で鐘が鳴り響いて、花火が打ち上がるような明るさです。
これ絶対現世の行進じゃないやろ、とっくにお空の世界にいっちゃってるやろ、という感じがして、弾きながらキモいキモいキモいと思ってたわけです。

前置きが長くなりましたが(そして盛大にトルコ行進曲をdisりましたが)、そのようなモーツァルトの曲への偏見を和らげてくれたきっかけが、映画「アマデウス」だったのです。


映画「アマデウス」は、必ずしも史実に忠実なわけではなく、モーツァルト像もいくらか脚色されていると思われますが、あの狂気じみた笑い声は、私が曲から抱いていたイメージにぴったりでした。まさに「アイネ・クライム・ナハトムジーク」とかのバカっぽい明るさを体現しているじゃないか、そう思えたのです。
一方この映画には、それらとは対極の暗い曲も存在しました。

「アマデウス」で特に好きなシーンが3つあります。冒頭と、オペラ「ドン・ジョバンニ」の上演シーンと、「レクイエム」の作曲シーンです。
3つのシーンにはそれぞれモーツァルトの曲が登場しますが、いずれも暗い曲です。冒頭は本題でもある交響曲第25番で貴重な短調の交響曲ですし、「ドン・ジョバンニ」のラストは石像に責められて地獄の業火に焼かれるので当然どす暗い音楽が流れます。そして一番好きな作曲シーンは、この映画のクライマックスに相応しく重々しい「レクイエム」のフレーズが流れます。それらは明るすぎて苦手だった曲とは正反対です。
要するに振り幅が広いのだな、と私は理解しました。そしてどす暗いのとくそ明るいのだったら、まだどす暗い方が人間味があってマシかもしれない、とその時の私は思いました。

さて、それではそろそろ本題に入ります。
「交響曲第25番 ト短調」は第1楽章が映画「アマデウス」で使われていますが、この第1楽章の第1主題が非常に切迫した雰囲気な為、私は日頃目覚まし用のアラームとして重宝しております。5分前にゆったりとしたシューマンの「ライン」をかけて一度半覚醒し、少しだけ心身の準備をした後、絶対起きねばならない時間にこの25番のサイレンのようなメロディを爆音で鳴らして驚愕とともに完全に覚醒するのです。
なかなか衝撃的なメロディです。半覚醒程度の準備では準備にならず、毎回心臓をバクバクさせながら目覚めます。
映画の冒頭では自殺を図ったサリエリ発見! と共にこの曲が始まるので、発見した人の心情にはいかにもぴったりだと思います。

病院へ運ばれるサリエリのバックに流れる不穏な音。不穏ながらも妙にテンポよく軽快で、切迫しているのに酷くキャッチーなメロディであるところが、やはりモーツァルトはちょっと変ではないかという気がします。
長調の明るい曲にも通じる尋常でない感じ、衝撃的で不穏で荒々しいけれど良く言えば俗っぽくない、悪く言えば人間離れした異様な感じ。この第1主題は、最初に鳴り響くサイレンのようなユニゾンも含めて、何か神の審判のような距離感を感じるのです。

ユニゾンで鳴り響くシンコペーションはとても印象的です。
まず緊迫した高音から始まり、次に一旦4度くらい低い音に落ちて、その後少しだけ浮上してからドンとさらに落ちるという二段階突き落とし攻撃を仕掛けてきます。
神はいきなり初っ端から只人を突き落としてくるのです。

審判という事で第1楽章を裁判の判決文に例えてみると、明らかに冒頭に主文が来るタイプです。もったいぶらずにいきなり実刑判決をぶちかます系です。
緊張の高音からの「被告人を懲役○年に処す」ドーン!
気を取り直して続きを待つも、執行猶予はつかない。ドーン!
後に続く理由の部分では、まずどんな罪を犯したのかが提示されます。第1主題は荒々しく不穏にしてキャッチ―。なのでここはやはり殺人でしょう。
第1主題が転調して長調へと変化しますが、音は明るくなっているのに変わらず緊迫感をはらんでいます。死体を埋める穴を掘っているかのような緊迫感です。そして変ロ長調の安心したような第2主題。これも次第に不穏さが迫ってきます。殺人と、死体遺棄の罪にも問われるのかもしれません。
そして展開部では、法令の適用について語られ、いよいよ再現部です。量刑の理由を裁判官が述べます。提示部ではト短調から変ロ長調に転調しましたが、再現部は最後までト短調のままです。暗いままのフィナーレ。
あなたはこんな罪を犯しましたが反省もなく極悪非道、心神喪失の認定もされませんでした。よって情状酌量の余地なし。チャンチャンチャンチャンチャ~ン。

こんな感じで非常に分かりやすいソナタ形式です。不穏です。


第1楽章の構成について思いつくまま変な例をあげてしまいましたが、これはあくまでも私の個人的な印象です。真に受けないで下さいね。曲聴きながら判決文とか思い浮かべても、たぶん混乱するだけだと思います。
ちなみに一応ちゃんと書いておくと、第1楽章は普通に提示部(第1主題→移行部→第2主題→第1主題→移行部→第2主題)、展開部、再現部のシンプル構成です。

第25番といえばとにかく第1楽章が印象的で映画にもそこしか使われていないので、以下は簡単にすっ飛ばしていきます。
急き立てられるような第1楽章の次は、うって変わって和やかな第2楽章ですが、この第2楽章もゆっくりと次第に不穏な音へと変化していきます。
第3楽章は短調の重々しいメヌエット(踊る曲のメヌエットが重々しいというのは意外なイメージですが)と管楽器のトリオ。トリオの明るさがメヌエットと好対照です。
そして最後の第4楽章では第3楽章の主題を少し変えて受け継ぎつつ、第1楽章のシンコペーションがここにも使われています。3-4-1と繋がる構成の妙、たかだか17年生きただけでこんな曲を書けるのですね、と遠い目になります。
遠い目になりつつも、私は「アマデウス」をきっかけにこの曲を改めて全部聴き、そして初めてモーツァルトの曲を好きになったのでした。

交響曲第25番を聴くうちに気付いた事があります。
私はクラシックに限らず、短調はしっとりした悲しげな曲より強く激しい曲が好きだという事です。そして、どうやら長調は逆にしっとり系が好きなのです。あっけらかんと明るいよりも、切ない明るさがいい。ぎらぎら眩しい太陽や煌々と輝く強い照明よりも、静かな月の光やほのかな灯りがいいのです。そして闇は真っ暗闇ではなくて薄闇なのです。
音楽に限らず極端にどちらかに寄ったものより、境界の曖昧な区別のつきにくいものが好きという私の嗜好が、こんなところにまで及んでいたわけです。

分かりやすい例でいうと、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」という曲があります。大好きなこの曲は、長調なのにメランコリックで明るさと悲しさが同居したような曲です。これぞ理想の長調です。
一方、かつてモーツァルトが苦手だったのは、その真逆、明るい方へ振り切れていたためです。理想から一番遠い長調です。
しかし、短調である第25番を気に入った事で他の曲も聴くようになると、案外モーツァルトはクラリネット協奏曲のような悲しげな長調のメロディも書いている事を知ったり、苦手だと思っていた振り切れた明るさも面白いかもしれないと思えるようになったりしたのです。
天から降りてきたようなそれは普通の明るさとは違う尋常じゃない音ですが、距離感があるというか、感情移入がしにくいのは確かです。かと思うと激情的で荒々しい短調の曲もあって、こちらは非常に感情を揺り動かされる。この対比が面白いなと思ううちに、感情移入のできなさ自体が面白くなってきたのです。

モーツァルトは素晴らしいメロディメーカーで、極端なくらいのあの明るさもまさに美しいメロディでできていて、それを天上の音楽と評する人もいます。まあ私は、その天上の音楽が天上すぎてイッちゃってるように聴こえたわけですが。
単純に私が限られた曲しか聴いていなかった、知ってる曲数が少なかったという、無知ゆえの思い込みもあったのでしょう。実際には人間味のある感情豊かな曲や心落ち着く曲もあったのですが。
人並み外れて振り切れた時は、常人には見えないものや聞こえないものまで感じているかもしれないと思わせる、面白さ。
好き嫌いを超えたところで、美しさと共にそういう面白さをだんだん感じるようになってきました。


さて、交響曲第25番をきっかけに昔は苦手だったモーツァルトに親しむようになった話をしてまいりましたが、最後におまけで映画の方の話も少しだけしておきましょう。
映画「アマデウス」のどこが好きかと訊かれれば、迷いなく「レクイエムの作曲シーン」と答えます。私は特別映画好きというほどでもなく(どちらかというと映像のない小説の方が好き)普通に時々見る程度なので、そんなに多くの映画を知っているわけではありませんが、今までに見た映画の中で一番感銘を受けたシーンが30年以上も前に見たそのシーンでした。

すごいアクションとかすごい心理合戦とかでもなく、大きな謎があるわけでもなく、素晴らしい映像美というわけでもない。物語が急展開というほどでもなく、名セリフというほどのセリフもない。泣けるシーンでもないし、感情は揺さぶられるけど、喜怒哀楽のどれに当てはめていいのかも分からない。ただ、モーツァルトが「レクイエム」の"Confutatis"を作曲し、サリエリが口述筆記でそれを手伝っているだけのシーンです。(ちなみにこの部分、実際には未完で後から別の人が作ったパートを使ってたりするのですけど、あくまでもフィクションとしての感想ですので)
ただそれだけのシーンですが、その緊迫感、迫力、天才性の描かれ方、それを理解した瞬間の描かれ方など、それまで見た事のないもので湧き上がる興奮が抑えられませんでした。

鬼気迫る瀕死のモーツァルトの頭の中からすごいスピードで紡ぎだされる音楽と、それについていけないサリエリ。繰り返すやりとりとそれに合わせて流れる荘厳な音楽。この臨場感!
分からないと頭を抱えながらもなんとか追いついて、ようやくその構造を理解したサリエリがパラランパンパンパラランパンパンと歌いながら書き取り、思わずもらす感嘆。"It's wonderful."
決して大げさすぎない、この感嘆の呟きに痺れるのです。10代の私の幼い感性は、びりびりと痺れまくったのです。
今まさにどうにかして殺そうと思っている相手の才能に心から感動して、するりと自然に出たその短いセリフが、どんなに作り込まれた文学的なセリフよりも真実味と説得力のある天才への賛美と感じられたのです。

「レクイエム」のシーン以外にも好きなシーンはたくさんあり、それを一つ一つ語っていくと膨大な量になってしまうので割愛しますが、とにかく私はこの映画が大好きで、30年余りに亘って何度も何度も何度も何度も繰り返し見ています。
そして交響曲第25番はオープニングとして忘れられない曲となり、今も朝の目覚ましアラームとして活躍しているわけです。

長くなりましたが、一応無理やりまとめたのでこのくらいで。

                          終わり

2019.1.14~2019.1.23  ブログよりまとめ


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