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希望

夕方の図書館で一人ノートを開くあいつが眼鏡を上げる仕草を盗み見ながら、僕は教科書のページを繰る。

窓際に座ったあいつを縁取る夕日。真剣な横顔。眼鏡で滲む窓の外の景色。

僕はなんだかやる気をそがれて、教科書を鞄にしまって席を立った。


2020年。

世界は疫病に侵され、僕たちは唐突に日常を奪われた。疫病が日本に迫りくる年始、先輩方が粛々と試験に挑むのを、僕たちはただ祈って見守るしかなかった。入試改革前年。先輩が、志望校のランクを下げてでも浪人せずに受かった大学へ行くよって青い顔をしていたのが印象深かった。

疫病は僕らの学生生活にも暗い影を落とした。最後の合唱コンクールが中止になる。合唱部部長としてクラスを優秀に導くために、各パートを回って練習の指示を出していたあいつは、それでも、こんな時はしかたないよねって、皆を励ました。

卒業式、在校生で式に参列を許されたのは二人だけ。送辞を読む生徒会長の僕と、先輩方が最後に歌う校歌の伴奏をするあいつ。在校生が先輩たちの為に歌うはずだった「旅立ちの日に」は、あいつのピアノで、先生方と僕だけで歌った。普段歌を歌わない先生の歌は、音もリズムも盛大にはずしていて、先輩方は笑い泣きしながら退場していった。

突然の休校だったけど、4月からはいつも通りの日常が戻ってくると信じていたのに、疫病が収まることはなかった。


1年前、あいつは、大学で声楽を勉強したいと目を輝かせていた。

でも、今は歌えない。狭い東京の住宅事情で、家で腹の底から声を出して歌うわけにも行かないし、レッスンはお休み。貸しスタジオも閉店。カラオケなんて以ての外だった。

その分楽典とイタリア語の勉強ができるからって笑ってたけど、歌えないのは致命的だろう。

1ヶ月、2ヶ月とあっという間に時は過ぎる。模試も英検もろくに受けられず、文科省は入試改革どころではないように見えた。9月入学や入試の後ろ倒しの噂が流れては消え翻弄される。僕らはいったいどうしたらいいんだろう。私立の進学校はもうすでにカリキュラムを終えて各自自習。私立高校を退学し、高卒認定試験を経て大学入試に挑む事を決めたやつもいる。公立高校に通う僕は、必修科目のカリキュラムもまだ残っているし、経済的な事情から予備校へも通っていない。学年団の先生方を頼りにしていたのに、オンライン授業が開始される気配すらなかった。

6月に入り、恐る恐る登校が始まったが、ソーシャルディスタンスとやらで、まともな授業は受けられていない。先生方も披露の色が濃厚だ。マスクにフェイスガード。声はくぐもって聴こえずらい。

三年に限り自習室と図書館が開放されたが、僕らはどんどん追い詰められていった。


廊下に出て、いったんマスクを外す。水道で顔を洗って、新しいマスクをつけた。振り返ると、あいつがぼんやりとした顔つきで、薄暗くなりかけた廊下に立っていた。

眼鏡を外したと思ったら、ゆらりと揺れて、眼鏡を落とす。そのままゆっくりと沈んでいく。

とっさに抱えて、頭を床にうちつけるのを防ぐ。

眼鏡のないあいつの顔は、赤く染まっていた。夕日はとっくに沈みきっているのに。

「息が苦しくて……目の前が暗くなっちゃった……」

熱中症だ。マスクを外し、タオルを水で濡らして首筋に当てる。自販機まで走って冷たい水を買って渡す。

「大丈夫か?」

あいつは水をごくりと飲むと、場違いに微笑んだ。

「ふふ。眼鏡、落として割れちゃったみたい。」

割れたレンズに、天井の蛍光灯の光が滲んでいた。

「もう勉強したってどうなるかわからないもん。私達の未来はどうなるの」

薄暗くなりかけた廊下で、微笑みながら静かに涙を流すあいつを、英語のノートで扇ぐことしか僕には出来なかった。


駅へ向かう途中、僕の好きな絵の話をした。

「ジョージ・フレデリック・ワッツって言う画家の「希望」って作品があってさ。女の人が目隠しをされて弦が切れた竪琴を抱えて仄暗い岩かなにかに腰掛けている絵なんだ。彼女は目が見えないし、竪琴は弦が切れて音楽を奏でられないのに、うっすらと微笑んでいるんだ。竪琴には一本だけ弦が残っていて、彼女はそれに耳を寄せ爪弾いている。これが希望なんだ」

不幸だけに目を向ける事は簡単だ。泣くのは簡単で、全て放り投げてしまう誘惑には抗いがたいけど。僕らは希望を見失わず、進んで行こう。

「うん。ありがと。また明日から頑張ろうね」

僕らは、決して諦めてはいけない。

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Hope

George Frederic Watts RA (1817-1904)



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テンションMAX、とても楽しい勢いのあるSSです。元気いっぱい! 活きのいいストーリー! 同じ学校を舞台にしたストーリーでもこうも違うのね。


こんな恋、してみたかった。してみたかったなー!目が悪い人って、こんな苦労があるんだ!って納得の描写でした。上手!


中学生くらいの時に出会った親友って、人生に於いてすごく重要で大きな影響を与えてくれる。くすぐったい青春の大事な1ページ。


ハードボイルド風味。描写が秀逸。でれでれしてる同僚君もかわいらしい。願わくばあまり傷つかないことを祈っております。

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