「君たちはどう生きるか」ネタバレ感想
(はじめに)
物心ついたときには、ジブリ作品は既に身の回りにありました。「スタジオジブリ」としてではないですが、「風の谷のナウシカ」が公開されたのは1984年で、もう40年近く昔のことですから、当たり前と言えば当たり前でしょうか。
自分が映画館でジブリ作品を観るようになったのは「借りぐらしのアリエッティ」(2010年・米林宏昌監督)から。以降は新作が出るたびに割と観に行っています。ただ、正直、これまで、ビデオや金曜ロードショーで観てきたようなジブリ作品と比べると、そこまで釘付けにされるほどの説得力がないな、とも感じていました。「風立ちぬ」(2013年・宮崎駿監督)を観た時も、久しぶりの宮崎駿監督の最新作とはいえ、そこまで強烈な感情の高まりを感じたわけではありませんでした。
そして、今年。もう6年も前にタイトルが発表されてから、いったいいつ公開されるのだろうかと記憶の海でぷかぷかしていた、「君たちはどう生きるか」が公開されました。長編アニメからの引退を発表していた宮崎駿監督が、発表の数年後に引退撤回してまで制作していた作品はどういうものなのか、興味がありました。そして公開初日に観たわけですがー。
(ネタバレ極力なしの感想)
観た直後に感想を考えましたが、うまくまとまりませんでした。「これはいったい何を観ていたのだろう」と思いました。宮﨑駿監督も、関係者のみを招待した試写会の中で、「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」とコメントしていたようです。
ただ、宮﨑駿監督のこれまでの作品が、観た人に分かりやすいように作られていた作品だったのだろうなというのは理解できました。カカオ100%のチョコレートは味わいづらいので、ミルクなどを混ぜて食べやすいようにしてあるのは皆さまもご存じのことと思いますが、同様に、宮崎駿監督も、自分の伝えたいことや表現方法などはあくまでも脇にとどめ、作品を観た人に伝わりやすい、楽しんでもらいやすい作品を作ることを第一としていたのではないかと思います。実際、「風立ちぬ」のWikipediaを読むと、「アニメーション映画は子どものためにつくるもの。大人のための映画はつくっちゃいけない」と鈴木プロデューサーに語っていたことが記されています。
その考え方を思い直して制作されたという前作、「風立ちぬ」は、戦闘機が好きだけど戦争は嫌い、という宮崎駿監督の内面を描き切ったような作品になっていますが、今作はそれを上回るような、宮﨑駿監督の描きたいことを、描きたい表現方法で描き出したような作品になっています。クリエイターは狂気的な生き物である、と僕は勝手に思っていますが、宮﨑駿監督もまさにそうでした。今回は製作委員会を介さずに作られている作品とのことですが、こういう映画を作ろうとした以上、製作委員会を介さない方が良いと考えたのかもしれません。
敢えてもう少し語るなら、名作とか駄作とか、面白いとか面白くないとか、分かりやすいとか分かりにくいとか、そういう評価基準を乗り越えていて、この作品は自分に何を語りかけているのか? 理解しようとする覚悟はあるか?と問いかけられているような2時間強だった、という感じでしょうか。
(ネタバレありの感想)
もしかしたら間違えて、ネタバレなしだと思って読んでしまう人もいるかと思い、ここまでネタバレは書きませんでした。ここからが本論です。まずはあらすじを起承転結で。思い出すためにも、割と詳細に書きますので、読み飛ばしたい方は次項へ、リンクでスキップしてください。
(あらすじ)
(起)舞台は太平洋戦争が起きて3年目の東京。まだ幼い牧眞人(以下・眞人)は、母の入院している病院が火事に遭ったことを知らされます。群衆をかき分けて病院へ向かう眞人でしたが、既に病院は炎に包まれ、焼け落ちるところでした。その後、父と眞人は再婚と疎開のため、母の妹が住む田舎へ引っ越します。父は飛行機製造の仕事をしており、この町に工場も持っています。再婚予定の相手の夏子(母の妹)は優しい人でしたが、眞人は馴染めずにおり、ほとんど会話しようとしません。
眞人がこれから住む、大きな屋敷に着いたとき、アオサギが彼らの近くを飛び回ります。家の中を案内され、自室に案内されると、疲れた眞人は眠ってしまい、母が焼け死ぬところの夢を見て、泣きながら目を覚まします。外にはあのアオサギがいます。アオサギは屋敷の近くにある大きな塔に入っていき、眞人も地上の入り口から入ろうとしますが、入り口がふさがれていて、入るのを断念します。道中に落ちていたアオサギの羽を拾いますが、いつのまにか消えてしまっています。
眞人は学校に通い始めますが、父の仕事の関係で裕福な生活をしている眞人は学校でも浮いた存在で、転校早々、級友たちと馴染めず、喧嘩をした帰り道、眞人は自分の頭を石で殴りつけて流血。自室で治療を受けます。アオサギが彼の部屋の窓から嘴を出して「眞人! 眞人!」「お母さん、お母さん」と叫びます。アオサギがただのアオサギでないと思った眞人は、木の棒で対抗しますが、アオサギも逆襲し、「母君に会いたくはないのですか? 塔の中でお待ちしておりますぞ」と煽ります。大量の魚もそれに同調し、カエルの群れが眞人を覆いますが、夏子の放った弓矢がアオサギの近くに刺さり、事なきを得ます。
(承)今度は自作の弓矢を作ってアオサギに対抗しようとしていた時、眞人は夏子が森へ入っていくのを見ますが、たまたま、母が自分のために残した「君たちはどう生きるか」の本を見つけます。本の内容と、母の優しさに涙する眞人でしたが、夏子が行方不明になっていることを知ります。眞人はお手伝いのおばあさん衆の中のキリコさんと一緒に森へ入り、塔の入り口を発見します。
塔の入り口に着くと、「お待ちしておりましたぞ」というアオサギの声とともに、中へ続く廊下に灯りが一斉に灯ります。「罠です、罠」「彼らの声はあの家の血筋の者しか聞こえません」とキリコさんは必死で止めますが、恐らく嘘と知りつつも、母がいるのならこの目で確かめねば、と眞人は中へ。入り口が閉じられ、アオサギが壁から現れます。案内された部屋に、母が横たわっているのを見ますが、触るとそれは水人形でした。怒った眞人はアオサギに矢を射ます。アオサギの羽が矢羽根に使われたその矢はアオサギを追いかけ、嘴を射抜くと、中から中年男性(以下・サギ男)が現れます。
夏子おばさんはどこだとサギ男を問い詰めると、遥か上階にいる人物が、サギ男よ、お前が案内しろと命じます。床が沼のように溶け、3人は下の世界へ。そこには広大な海が広がっており、眞人は巨大な森に守られているような石の遺跡を見ます。「ワレヲ学ブ者ハ死ス」と書かれた門のところにいると、大量のペリカンがやってきて眞人を食おうとしますが、船でやってきた謎の女性に助けられます。ここは墓だ、墓の主が目を覚ましたら大変だ、とその女性から言われた後、2人は船で巨大な魚を釣り、それを亡者たちと「わらわら」に食わせるため、解体します(生きている者にしか殺生行為はできないため)。
(おそらく)巨大魚の内臓によってエネルギーを得た「わらわら」は、膨らんで空へ飛び立ちます。彼らは上の世界で人間として生まれるのです。それを大量に食べまくるペリカンたちが襲来しますが、火を操るヒミという少女が花火のような火を放ち、「わらわら」もろともペリカンを燃やして追い払います。生き残った「わらわら」が空へ消えるのを見て、2人は女性の家へ。実家のおばあさん衆の人形を見つけた眞人は女性にこれは何かと聞くと、あれはお前を見守っているのだと答えます。眞人は「キリコさん」と、名を告げられる前に女性の名前を言い当てます。
外に出ると、先程の火で焼け死にそうになっているペリカンがおり、彼は話し始めます。この海には餌となる魚が少ない。我々は空を飛んで餌を探したが、いつもこの島に流れ着いてしまい、「わらわら」を食っている。いつしか子孫たちは空を飛ぶことさえも忘れかけている。ここは地獄だ。そう言い残してペリカンは死にます。再登場したサギ男とともに、眞人はペリカンの墓を作り、葬ります。
(転)キリコさんと別れ、サギ男とともに夏子のもとへ向かう眞人。その頃、塔の外では父親が、塔について、おばあさん衆から話を聞いています。あの塔は空から降ってきた。誰も近づかなかったが、眞人の大叔父が興味をもって中を調べ、いつのまにか行方不明になった。父は塔を調べることにしました。
眞人とサギ男は鍛冶屋のところに着きますが、そこは既に、「象でも食べる」と言われている巨大インコの住処となっていました。サギ男はアオサギの姿になって彼らを引き付け、その隙に眞人は鍛冶屋を調べようとしますが、結局、食われそうになります。夏子おばさんも食べたのかとインコを問い詰めると、あれは赤ちゃんを宿しているから食えないと答えます。絶体絶命のピンチに現れたのはヒミ。ヒミは火でインコを追い払い、夏子のもとに行きたいなら私についてこいと言うと、炎の中にある空間を通ります。そこはヒミの家の暖炉に繋がっていました。
夏子も好きだったというヒミのパンを食べる眞人。近くにはあの塔が見えます。色々な世界にまたがって、あの塔は存在していると話すヒミ。塔の中に忍び込むと、数字の書かれた、多くの扉のある廊下に着きます。その扉は塔の外の世界と、それぞれの時間で繋がっているようでした。インコの襲来を受けてやむなく扉の外に出ると、父親の姿が。まだ帰れない、と眞人は中へ戻りますが、眞人とヒミを追うインコは外へ。父は巨大インコと戦いますが、見る見るうちに彼らは普通のインコの大きさに。鳥フンにまみれながら父親は動揺しています。
インコの追撃をかわし、石でできたトンネル(石は彼らを歓迎していません)を通り、ついにヒミと眞人は、夏子のいる産屋へ。ヒミはここには入れないので眞人だけが入りますが、夏子は猛烈に怒りながら、私が嫌いなんでしょう、一緒には行かない!と突っぱねます。本心を知った眞人は初めて夏子に「母さん」「夏子母さん」と話し、それを聞いた夏子は驚きます。眞人が外に出た後、ヒミは夏子に、一緒に元の世界へ帰ろうと呼びかけますが、石から出た火花にやられ、ヒミと眞人はその場で失神し、インコに連れ去られます。
(結)夢の中で眞人は、光る三角形の入口へ入り、その奥にある回廊で大叔父と会います。大叔父はこの世界の創造者ですが、かなり年老いていて、この世界を維持するのも難しくなり、自分の血を引く眞人に跡を継いでほしいと持ち掛けます。この世界は積み木でできている、この積み木を積めるのは血筋である者しかできないと話す大叔父に、これはあの墓と同じ石でできている、悪意に染まった石だから自分はやりたくないと話します。
目が覚めるとそこはインコの家でした。またも絶体絶命の危機に、サギ男がやってきて彼を救出します。インコたちは外から大叔父が連れてきたのですが、数が増えすぎて彼らの居住地では手狭になっていました。彼らにとっては、産屋に近づいたヒミと眞人は禁忌を犯したので、創造者(大叔父)に直談判できる口実ができたわけです。統率者のインコ大王がヒミを連れて大叔父と会談しますが、大叔父は、眞人に跡を継がせたいが彼は迷っている、1日待ってほしいと告げます。インコ大王がその場を去って後、大叔父と再会したヒミは泣いて喜びます。
眞人は大叔父のいる塔の上階に行こうとするも失敗しますが、気づくと、近くにあの光る三角の入り口が見えます。サギ男ともに入り口を通る眞人のあとを、インコ大王がこっそり追いかけます。ヒミと合流した眞人は大叔父と再会。大叔父は、悪意に染まっていない13個の石を長い時間の中で見つけてきたので、これを積んでほしい、どう積むかによって更に平和を築くこともできる、と伝えますが、眞人は頭の傷を指さし、これは私の悪意の印だから、その仕事はできないと断ります。戦火にまみれるであろう外の世界に帰るのかという大叔父の問いにも、ヒミやサギ男のような友達を作りますと眞人は答えます。
隠れて聞いていたインコ大王は痺れを切らし、そんな積木は私が積んでやると言い始めて積みますが、積めるわけもなく、世界は崩れていきます。大叔父に別れを告げるヒミ。3人は元きた道をたどり、大叔父の言っていた場所(扉が多く連なっている廊下)に着きます。眞人はヒミに、同じ時代に出よう、そうすれば死なずに済む(眞人はヒミが自分の母だと分かっています)と話しますが、ヒミは、私は元の時代に帰る。そうして眞人の母親になる、それが幸せだと話し、キリコとともに元の時代へ帰ります。夏子もこの廊下へきており、眞人はサギ男と夏子、そして鳥たちととともに元の時代へ帰ります。塔は崩れ落ちてしまいました。
元の世界に帰っても、眞人が中の世界のことを覚えていることを、サギ男は不思議に思いますが、眞人が中の世界の石を持ち帰っていたと知り、おそらくその石のおかげだろうと答え、アオサギの姿に戻って、どこかへ飛んでいきます。中のキリコさんが手渡してくれた人形が、こちらの世界のキリコさんへと変わり、いなくなっていた3人が無事に見つかったと、父とおばあさん衆は喜びます。戦争が終わり、眞人の家族(弟も増えています)が東京に帰る日、眞人は部屋で、カバンに「君たちはどう生きるか」の本をしのばせ、ポケットに何かを入れて、彼らのもとへ向かうのでした。
(これってつまり、何の映画なの?)
映画を観られた方や、あらすじを読まれた方は、おそらくそうおもったことでしょう。僕も、いったいこれは何を見せられているのか?と思いました。ただ、過去の宮崎駿監督の作品を考えますと、なんらかのメタファーかな?と思わせるような描写が幾つも出てきたことを思い出します。自分にとって、これはいったい何を表しているのか?と考える事それ自体がジブリ作品の楽しみ方でしたので、単に出てくる事象それだけの意味しかないような最近のジブリ作品は、あまり面白いとは感じられなかったというのが実際のところです。
作品全体の雰囲気は、「千と千尋の神隠し」(2001年・宮崎駿監督)と似ているように思います。普通の世界から異世界に来る点や、ピアノが主体の劇伴、水が良く出てくるところなどは、あの世界観を思い出させてくれます。ただ、この作品は、過去の宮崎駿作品に出てきた場面をセルフオマージュしたような場面がかなり多いです。
苔むした古い塔はまるで、「天空の城ラピュタ」(1986年)に出てくる建造物ですし、その塔に向かう森の中の道は「となりのトトロ」(1988年)に出てくるトトロへ通じる森の道のようです。わらわらのいる場所は「もののけ姫」(1997年)に出てくるシシ神の森のようですし、わらわらもコダマと少し似ています。元いた時代へ戻る扉は「ハウルの動く城」(2004年)に出てくる魔法の扉ですし、暖炉の場面もハウルの城の中を思い出させてくれます。キリコさんと初めて会う海や船は、映画ではありませんが「未来少年コナン」(1978年)の始まりの場面と似ているとのことです。そう、まるで、塔にまつわる世界は、宮崎駿監督作品の世界とでもいえるような描かれ方をしているのです。
恐らくご覧になられた方は感じたことでしょうけど、いわゆる導入の、塔に入るまでのパート、かなり長いですよね。試しに時間を測ってみたのですが、40分前後もありました。そこまでの時間を割いた意味を考えてみましたが、どうやら、宮崎駿監督の母は病気のため、長く入院しており、父は飛行機製造の仕事をしていたようです。劇中、戦闘機の風防(コックピット上部のガラスでおおわれている部分)が自宅にずらっと置かれる場面がありますが、あれも宮崎少年が実際に観たのと同じような光景なのだそうです。映画の前半は、時代背景も含め、宮崎駿監督が過去を回想して描いた、と考えることが出来ると思います。
塔に入る前の眞人は、前向きでなく、人となかなか心を開かない少年として描かれています。これも前述の記事にあるのですが、宮崎駿監督はこれまで自分が描いてきた男性主人公が勇敢すぎることに、ずっと違和感を抱いていて、本当はもっとウジウジすることもあったり、一歩踏み出せないようなものだろう、自分もそういう少年だったからだ、のようなことを話していました。前半の眞人のモデルは、宮崎駿少年なのだと思います。
そんな彼が、「君たちはどう生きるか」(これも宮崎駿少年が読んで感動した話だそうです)を読み、母の優しさを知って、矢を手に持ち、塔の中へ進んでいく。それはまるで、アニメーションの技術を手にした宮崎駿監督が、まだ未知なる、オリジナルアニメ映画製作という世界へ飛び込んでいったことのメタファーなのかもしれません。他のレビューを読むと、塔そのものがスタジオジブリの比喩ではないかという見方もあります。少なくとも、塔の下の世界は、スタジオジブリの比喩なのかなという気がしました。年老いた大叔父は、今の宮崎駿監督の姿なのかもしれません。
(キャラクターは誰の比喩か)
これも、ネタバレあり記事の中でよく話題になっている内容です。ただ、明確にこの人物や組織を指している、とまで言ってしまうと、この部分の辻褄が合わないといった無駄な議論になりかねないので、あまり深くは考えません。
眞人
→前述のように、前半の眞人は宮崎駿監督の少年時代。後半は宮崎吾朗さんという説もありますが、正直、決定打がありません。もしかしたらタイトルにある「君たち」を象徴的に表したキャラクターなのかもしれませんね。
眞人の両親
→宮崎駿監督の両親のことなのかなと思います。
アオサギ
→鈴木プロデューサーなのではないか?とネットでは言われていますが、そうかなと思える面と、何か違うような・・・と思える面とがあります。何名かの人物を併せているのかもしれません。
(2024.3.11加筆)その後に出ていたインタビュー記事に書かれていましたが、アオサギは鈴木プロデューサーをイメージしたキャラクターとのことでした。
キリコさん
→宮崎駿監督にとってのクリエイターの師匠のような人なのではないかと思います。宮崎駿監督の作品の中でタバコを吸う人は、クリエイターを表しているように思います。監督ではないですが製作に深く携わった「耳をすませば」(1995年・近藤喜文監督)の中では、主人公の父が突然タバコを吸い始め、主人公に、人と違う生き方はしんどいと説く場面がありますし、「風立ちぬ」では飛行機製作に携わる多くの人物が、主人公を含め、タバコを吸いまくります。「君たちはどう生きるか」の中でタバコを吸うのはキリコさんと、もう1人のおじいさんだけ。彼らは主人公に矢の作り方を教えたり、塔の中のことを教えたりしています。高畑勲監督という説もあるようですが、少し違う気もします。
わらわら
→精子ではないか?という見方もありますが、精子のように、死ぬかも分からない運命を背負いながら、命を届けていく存在という描かれ方なので、精子そのものではない気がします。でもヒントは得てそうです。
ペリカン
→わらわらを食べ、人が生まれることを阻害する存在であっても事情があるし、彼らも生きる理由がある、という象徴的な描かれ方です。特に何のモデルがあるわけではないのかなと思いますが、何度か観たら新たな発見があるかもしれません。
ヒミ
→宮崎駿監督は、伏せがちだった母への想いから、強い女性を自身の物語に出してくるところがあります。ヒミは塔の外では眞人の母でした。元気で、なんでもできる世界線の母を、この作品では、こういう形で出してきたのではないかと思います。
夏子
→特にモデルはいないかな、と思います。
大叔父
→現在の宮崎駿監督を表しているように思います。
(2024.3.11加筆)その後に出たインタビュー記事によりますと、大叔父は高畑勲監督のイメージらしいです。高畑勲監督が亡くなられた際、宮崎駿監督はショックのあまり、しばらくこの映画の製作を中断してしまったとのこと。大叔父は最後、命を落としますが、もしかしたらその設定も、高畑勲監督の死去の影響を受けて、そうなったのかもしれないですね。
インコたち
→外から連れてこられたが、石の建物の中で増えすぎてストレスを溜めている存在。そのトップのインコ大王は、大叔父が眞人に託そうとした、13個の積み木を適当に積んで、世界そのものを壊してしまいます。13という数字が、宮崎駿監督の担当した13本の映画作品を表しているとしたら、インコ大王は映画作品を観て、全てをわかった気分になっている存在のことかなと思います。それは我々、ジブリファンの驕りかもしれませんし、スポンサーのことなのかもしれません。ただ、今回は製作委員会方式でないなら、後者と考えるのが近いでしょうかね。
(あのシーン、どんな意味?)
眞人が石で自分の頭を打ち付ける
→序盤に出てきますが、かなり理由の分からない場面です。クライマックスで眞人はこの行為に触れ、「自分の悪意のしるし」ということを振り返りますが、この行為が「悪意」だったとした場合、それはどこに向けられた悪意だったのか?というのが気になります。学校を困らせたかったのか? この環境を強要した父を困らせたかったのか? それは結局、触れられずに終わりました。
ただ、父に対し、「転んだだけ」と答え、学校に勝手に話をつける父を少し嫌そうな顔を浮かべているところを見ると、その後に起きたことは眞人の思ったようなことではなかったように思います。これは僕の想像ですが、眞人に多少の悪意があったとしても、その後の状況を想定しての行動ではなく、知らない場所に連れてこられ、父の再婚相手に会わされ、学校へは父がこれ見よがしに高級車で送り迎えするという、急激な環境の変化によるストレスで、衝動的に石で頭を打ってしまったのではないかと考えます。
ジブリ作品は「この場面にはいったいどんな意味があるのか」と思わせるような描写がありますが、この場面は「リアルな少年の心」を描いたもので、特に比喩的なものではないのでは、と思います。
夏子が森へ消えていくのを眞人が無視する
→中盤以降の展開は、眞人が森の中の道から塔の中へ入っていくことで幕を開けますが、眞人は最初、部屋の中から、夏子が森へ消えていくのを見ていますが、特に何のアクションも起こしません。そんな彼が夏子を探して塔の中へ行ったのは、おそらく、「君たちはどう生きるか」の本を読んで感動したことと、この本を贈ってくれた母の愛に触れたからではないかと思います。
海の近くにあった墓
→すみません。本当に分かりません。「我を学ぶ者は死す」という言葉の意味もよく分かりません。墓の中に何かしらの存在が眠っていることは明らかになっていますが、何なのかは分かりません(目覚めると危険な存在のようですよね)。いずれ、何かピンとくることもあるのかもしれません。
眞人たちを歓迎しない石
→塔の世界の中にある塔(ややこしい)の中にある幾つかの通路は石でできていますが、触るとビリビリします。インコは大丈夫なのか?とも思いますが、終盤はインコ大王たちもビリビリしている場面があります。そうなると、産屋や、産屋までの通路や、大叔父のところへ続いている通路は、部外者の侵入を拒んでいるのでしょう。ただ、それが何を表しているのか?となると、これも正直わかりません。
悪意に染まっていない13個の積み木
→大叔父が最初に眞人に積み木のことを告げた時、それは墓と同じ石だと答えました。悪意に染まっている、とも。仮に、塔の中の世界をスタジオジブリのメタファーだと考えた場合、それは悪意に染まっているというのです。一見すると美しい世界ですが、実際は綺麗なものではない、ということでしょうか。
二度目に会う時、大叔父は「悪意に染まっていない13個の積み木」を見せます。前述しましたが、宮崎駿監督の映画作品は、今作を含めて13本なので、少なくとも映画作品に関しては悪意のない、美しい世界であると言っているように聞こえます。二度目に観た際、思わず涙してしまった場面です。
ラストシーン
→ラストは、眞人が元の世界に帰っても、塔の中の世界の出来事を覚えていたことと、東京へ戻る時の場面で終わります。眞人が覚えていられたのは、塔の中の世界の石を持って帰ってきたからでした(アオサギは「それでもいつか忘れる」と言っていましたが・・・)。
私たちは、現実世界から離れ、空想の世界に触れることが出来ます。書籍や、テレビ、映画などで。しかし私たちはその世界に留まり続けることはできないので、現実に帰ります。想像の世界で味わった多くのことは忘れてしまうでしょう。それでも、「君たちはどう生きるか」をカバンにしのばせた眞人のように、そして、おそらく、あの石をポケットにしのばせた眞人のように、想像の世界の出来事を大切にして、現実世界でも生きるのではないでしょうか。それが、タイトルの「君たちはどう生きるか」という言葉の持つ幾つかの意味の中のひとつなのだと思います(というのを、このレポを読んで思わされました)
(作画・声優・音楽について)
作画は見慣れたジブリの、あの作画タッチです。今回、実際に絵を描いたのは宮崎駿監督ではないという話も伝わっていて、有名なアニメーターさんたちや、スタジオポノック、ufotableなどが携わっています。当然、雑な作画になるような場面などなく、とても丁寧に描かれています。リアルに寄りすぎるとジブリらしさがなくなるので、難しいラインの作画だったと思いますが、頭が下がる思いです。
声優は俳優さんたちが担当しています。特に下手だなと思うような場面はありませんし、合ってないなと思うような場面もありません。そりゃ、本職の声優さんならもっと迫真の演技を見せてくれたでしょうけど、必要十分です。
音楽は前述のように、「千と千尋の神隠し」のような、繊細なピアノで奏でられた劇伴です。あまりバリエーションは多く作られていないのかな、と思いましたが、3種類ほどの劇伴が要所でよく出てきます。どれもとても美しく、心が洗われるようでした。主題歌も同じように、ピアノで奏でられたような曲なので、映画を観終えたそのままの気持ちで主題歌の世界に浸ることが出来ました。米津玄師さんの「地球儀」。めっちゃ良かったですね。
(おわりに)
今回の映画は、もう、本当に、これで宮﨑駿監督の映画作品に触れるのは最後なんだろうな、という思いに満たされました。これからのジブリがどうなるのかとか、そういう不安もあるにはありますが、感謝の想いに満たされて鑑賞することが出来ました。他のアニメ映画も観ますし、それも楽しかったですけど、アニメ映画を観て、圧倒されて、これは何のメッセージだろうと考える。そういう経験は宮崎駿監督の作品でしか感じていないかもしれない、と思わされました。
(2024.3.11加筆)どうやら、宮崎駿監督は、次なる作品に向けて準備しているとのことです。ただ、もしかしたら「君たちはどう生きるか」が遺作になるかもしれないという思いも少なからずあるのではないか、と感じます。それぐらい、言葉にできないほどのエネルギーを持ち、それを託されようとしている、と感じた作品でした。
普段は野球についてのnoteを多く書いていますが、「君たちはどう生きるか」という膨大なインプットを浴びて、映画についてアウトプットしたくなって今回のnoteを書きました。また今回のように、何かの作品についてnoteを書くことがあるかは分かりませんが、ここまで読んでくださったなら感謝です。それでは、また。
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