見出し画像

1998 ~ 2024        13

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

13
12月30日に彼は戻り翌日教会での葬式が行われた。
その後しばらく彼の母親の家で過ごすことになった。私達は彼の思い出話をしながらお互いを少しずつ知っていった。6か月の語学留学の後のなかなか厳しい英語のレッスンのようだった。優しく辛抱強く私の話に耳を傾けて3年間の彼の不在を声をあげて笑ったり遠くを見て想像したりしながら埋めていた。
でも彼の母親がする私の知らない昔の彼の話は私を孤独にするだけだった。彼といた時間が物凄く小さなものでしかなかったのだと気づかされているようで私がここで涙することも間違っているかのような気持ちになった。数少ない悲しみの理解者までも遠ざけそうになっていた。
滞在の最後の朝、長い朝食の終わりにこんなことを言われた。
” 自ら命を絶つものは会いたい人には会うことはできない ”と、たどり着くところが違うのだと続けた。だから私は生きるのだと言って私を戒めた。
何十年ぶりの大寒波と言われたトロントの冬は私を少しも助けてくれなかった。
もし、教科書のようなものがあって 
“こうしたら辛いことを忘れて元気になります”
というページを開いて書かれている通りにすれば楽になれるような、そんな何かを探していたのだと思う。この行き場のない、どうしようもない気持ちを誰かに私の言葉で聞いてほしいと願っていたと思う。いつか彼に会うために死ぬことはできないのだから。
偶然に目にした地元紙の中に小さい仏教の礼拝の案内を見つけた。
そこへ足を向けることに勇気など必要なかった。羞恥心などの感情はどこにも残っていなかったのだから。
宗派は違ったもののお寺だった。普通に洋服を着た住職が当たり前のように私を中へ入るようにと促してくれた。
利己的に自己中心的に私は話し始めた。住職は一言も言わずに長い私の話を聞いていた。
明るいうちに来たのに帰るときには真っ暗になっていた。
住職は慰めるわけでもなく、わかったふりをするわけでもなく、諭すわけでもなく私だけを見て私だけの話に耳を傾けてくれた。
ほかの音が何もない部屋で何もない部屋で私の話を聞いてくれた。
大分後で住職が ”この人はこの後家に帰って一人で何をするのだろう“ と思いましたと初めの日のことを話していた。特効薬を処方されたわけでもなければ奇跡的に闇が晴れるわけでもない。それでも私は少しずつ心を開くようになり、ゆっくりといい日が増えていった。
” 忘れて、忘れながら生きて行きなさい ” と住職は私を諭した。どうしてこんなことを言うのだろうと私をうろたえた。

無くしてしまうことでも消してしまうことでもない。
20何年もたった今、私はこう思う。
必死に生きれば幸せはあなたの目の前にあることに気づくだろうと。
忘れるのではない、思い出になるのだと。思い出になるとそれは心を豊かにしてその思い出はあなたの一生の糧になると。
目には見えない時間があなたの一番の味方になるだろうと。
だから生きなさいと。
忘れて生きなさいと。
 
時に時間は残酷に過ぎて私達をひどく傷つけることがある。
それでもの残されたものには生きてゆかなければならない人生がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?