見出し画像

「まぶたが開かない」×「できなかった」× d6adff

 やっちまった……。扉を隔てたあちら側から、温かい匂いが漂ってくる。何も言っていないのに、さとちゃんはリビングに続く扉を少しだけ開けてくれていた。風邪のときは、みんな少しだけ心細くなっちゃうから、だって。

 少なくとも、独り暮らしのときの私は風邪をひこうが、寝込もうがあまり気にしたことなかった。寝てれば治ると思っていたし、それはほぼ正解で。常備しておいた薬を飲んで、会社の帰りに買ってきておいたスポーツドリンクやらスープなんかで体調を整える。
 でも、さとちゃんと暮らすようになって2年。本格的に体調を崩すのは初めてだけれど、自分はこんなにも脆くなっていたのだと実感させられた。

 さとちゃんと暮らすことになったのは、本当にただの成り行きだった。さとちゃんが独り暮らしをしたいけれど不安だという話を聞いて、私はちょうどそのときに住んでいたマンションの更新の時期で。なんとなく一緒に住もうか、という話が持ち上がってから早かった。さとちゃんは私がなんとなく呟いた予算内の物件を見つけてきて、二人で何件か内覧に行って、契約をして。
 引っ越し作業は面倒だったけれど、物が多い私の部屋の片づけを、さとちゃんは文句も言わずに手伝ってくれた。
「おじゃましまーす」
 ほかほかと湯気が立ったおかゆを、さとちゃんがそろそろとした足取りで運んでくる。料理が趣味だというさとちゃんは、手際はいいのに、すごく抜けている。長距離で運ぶとき、必ずと言っていいほど何かをこぼしたり、落としたりしてしまう。
「はい、卵がゆ。梅干しもどーぞ。口のなか、さっぱりするからね。」
 おぼんの上には、深めのどんぶりに盛られた薄い黄色のおかゆ。この間、買ったばかりの猫が描かれている豆皿には母が送ってくれた梅干しがのせられていた。
「……食欲ないんだけど。」
「食べてもらわないと、お薬あげれないんですけど。……本当に市販薬でいいの?」
「いいよ。今までも寝てれば治ってたんだし。……いただきまーす」
 軽く手を合わせて、小さく呟く。独りのときはあまり気にしたことがなかったけれど、二人で暮らすようになってからは絶対にするようにしている。さとちゃんが嬉しそうに笑うから。
「やっぱり土鍋、欲しいよね。」
「え?」
「なんか、土鍋で作ったほうが“おかゆ!”って感じしない?」
「……これで十分だよ。美味しいし。」
 そう?と、さとちゃんは少しだけ不満げな顔。でも、今まではレトルトのおかゆばかり食べていた身としては、そんな王道な形で出てこなくても十分である。土鍋が欲しいという話は常々聞いていたし、探していることも知っていたけど、自分の風邪のタイミングで改めて欲しいと思われるとは。
 食欲がないと言いながらも、身体は食べ物を欲していたらしい。思えば、昨夜から食欲はなくて、お風呂に入っただけで寝てしまった。
「うん、食べ終わったね。じゃあ、これ飲んで。おそまつさまでしたー」
 空になった食器をもって、さとちゃんはまた部屋を出ていく。
「あ、さとちゃん」
「ん?」
「今日、ごめんね。」
「なにが?」
 さとちゃんは、本気で分かっていないような顔をする。
「……今日、予定あったでしょ。」
「ああ、竹中くんのこと?ちゃんと事情話してるし、大丈夫だよ。むしろ、彼も心配してたし。映画なんて、いつでも観れるしね。それに」
 ここだけの話だけど、実はあんまり観たくないなって思ってたの。と、ちょっといたずらな笑顔を浮かべる。誘われると断れないことが、彼女の悩みなことは知っていた。
「だから、むしろ私がありがとうかも。」
 ふふ、と小さく笑って、今度こそ部屋を出ていく。彼女の華奢な背中を見送って、ずるずると布団のなかに潜り込んだ。薬のせいか、まぶたが重い。すっかり弱った身体では、それに抗うことも出来ずに、そのまま眠りの世界へとおちていった。

「あ、起きた」
「……さとちゃん」
「おはよう。……夕方だけど。どう?」
「大分、楽……。お風呂入りたい。」
「今日はやめておいたら?タオル持ってきてあげるよ。」
 慣れたように、テキパキとさとちゃんは私の看病をしていく。夕飯はあっちで食べない?という優しい声に、なんとなく頷いて、手渡されたカーディガンを羽織った。明るいリビングには、生活の匂いが立ち込めていて、そのことがなんとなく私に安心感を与えてくれる。
 言われた通り、ソファに座ると毛布とスポーツドリンクが渡される。
 喉が渇いていたことを思い出して、目の前に置かれコップにスポーツドリンクをついで一気に飲み干すと、身体からホッと息が漏れた。
 なんとなくテレビをつけると、曜日のこともあるだろうけれど、全く面白くない。適当なニュースをつけて、毛布にくるまる。
「もう少しで出来るからー」
「んー」
 キッチンでパタパタと動き回るさとちゃんを見て、罪悪感と安心感が入り混じる。竹中くんとのデートは大賛成。少なくとも、さとちゃんは嬉しそうだった。買ったばかりの薄い紫のスカートを、先週から何度も身体にあてていたことも知っている。
『そのスカート、私と出かけるときに履いてくれないの?』
 繰り返し浮かんでくるその言葉を、私はいうことが出来なかった。
「おまたせしましたー」
 朗らかな笑顔を浮かべて、さとちゃんが夕飯を運んでくれる。
「おかゆは今回白がゆなんだけど、その代わりおかずとスープね」
 嬉しそうな顔を浮かべて説明してくれる彼女を見て、罪悪感は独占欲に負けてしまった。
 なんて、不毛な。
 胸の奥底で、声がする。不毛な想いでも、くすぶってしまったら仕方がない。それでも、彼女が幸せになってほしいというのも本当なんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?