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「あと少しだけ!」×「ネイル」× #4D4398 / しの

 呼び出されたから来たものの、退屈すぎるからもう帰ってもいいかなーなんて考えている。薄いピンクのシフォンスカートに、昨日買ったばかりのざっくりとした網目のセーター。ヒールは6㎝だし、バッグはコンパクトなサイズでデートスタイルとしては完ぺきなのに。

「内藤、今日はありがとな。仕事のあとなのに」

「ううん、全然。」

 にっこりと、鏡で練習したとおりに笑いかける。竹中くんは悪い人じゃないけれど、仕事で疲れたあとに会いたいほどではない。

「紅茶でよかった?」

「ありがとう」

 目の前に置いてくれたカップに申し訳程度に口をつける。カフェインを摂るのは控えているけれど、彼に伝えたかも覚えていないし。彼にカフェイン含有量の話をしても仕方ない気もする。

「中川、元気になった?」

「うん。毎日、嫌だな~って言いながら仕事に行ってる。」

「そっか」

 二人の間に、また微妙な沈黙が流れる。彼は一生懸命に話題を探していることが私にもわかるし、私はそんな彼のために何か話題を提供しようという気にすらならない。

 だって、疲れているし。

 竹中くんは悪い人では、決してない。むしろ、彼との関係において圧倒的な悪者は私だ。なんて、嫌な女なんだろう。

 さとちゃんと一緒にいると分かることが、彼と一緒にいるだけで霧がかかったように分からなくなる。なんで、こんなにも違うのだろう。

 竹中くんの声は私の耳を通って、空へとすり抜けていく。ああ、退屈だなぁ……。空元気な竹中くんの声は、テラス席にむなしく響いている。

 私は、なんて嫌な女なんだろう。

『明日、仕事終わりとかどう?』

 俺の送ったメッセージは、約5時間読まれることがなかった。彼女と俺のお昼休みは同じくらいで、いつもの雑談ならすぐに返信があるというのに。

「しくじったか……?」

「いつものことだろ。」

 隣に座る藤峰に聞くと、興味なさげに鼻であしらわれた。俺の恋の事情をある程度知っているこいつは、俺の脈がないことを当初から指摘している。でも、内藤に脈のある男ってどんなやつだよ? 俺が知っているなかで、内藤に一番近くて信頼されているのは中川だけだ。少なくとも、俺と同じ男性のなかにいるとは思えない。

「そんなこと言ったらさぁ、俺どうすればいいんだよ」

「だから諦めろよ。他に女の子はたくさんいるんだぞー」

 藤峰はモテるからそんなことが言えるんだ。でも、10年前のこの思いを燻らせているだけの俺よりはずっとマシなのかもしれない。

 結局、2時間の残業のあと、電車に乗っているころに内藤からの返信が届いた。

『いいよ』

 一言とキャンペーンスタンプ。舞い上がって、そのまま詳しい待ち合わせ場所をツラツラ送ると、OKのスタンプだけが返ってくる。……めげない、めげないからな。

 彼女と会う回数を重ねるたびに、彼女が上の空になっていくのが分かる。笑っているのに、笑っていない。彼女が俺に向けてくれている笑顔は、完璧すぎて何も感情がこもっていないことが分かる。

 ため息を飲み込むたびに、藤峰の「だからやめろって言っただろ?」という声が聞こえてくる気がする。

 やめたいけれど、やめられないんだ。彼女と会うたびに、苦しくなる。

 彼女は俺を絶対に見ようとしてくれないし、だから俺は彼女のことを深く知ることはできない。もしかしたら、彼女はロングヘアよりもショートカットが好きなのかもしれない。中学時代のさっぱりとしたヘアスタイルは、指定ジャージに似合っていた。ふわふわのシフォンスカートは似合っているし、目にしたときはテンションが上がったけれど……彼女といると、自分の感覚に自信が持てなくなる。俺のこの感想はあってるのか、それとも彼女にとっては地雷なのか。

 まあ、どれも正解じゃないから、彼女は俺といてこんなにつまらなさそうな顔をしているのだろう。

 でも、あと少し……。彼女の前の席に座ることを許してほしい。なんとか、自分の力で彼女を心から笑わせてみたいんだ。

 ……なんて、ちょっとカッコつけすぎかな。あと、高望みもすぎるかもしれない。

『竹中くんとお茶してから帰ります。』

 みゆきからのメッセージに、ご飯も食べてくれば?と返すと、明日早いから大丈夫ーと気のない返事。竹中、かわいそうだなぁ。

「……っていうか、明日の予定ってなんだ?」

 私は今日は残業予定だし、今週末もひたすら寝て過ごすことになるだろう。病み上がりのなか、ちょっと頑張ったんじゃないか、今週も。

「せんぱーい」

「んー」

 みゆきの作ってくれたおにぎりには、肉味噌がたっぷりと入っていて美味しい。お肉って偉大。だって、少しだけ食べてもスタミナがチャージされた気がしてくる。

 竹中とデートに行くといわれても、何も感じないのは竹中に失礼かもしれない。でも、私は彼と勝負をするつもりがない。みゆきのことは好きだし、両親を除いて、彼女をよく知る人物の一人だと自負してもいる。でも、だからといって竹中がなりたい存在になりたいと、力強く手を上げることはできないのである。

「……道ならぬ、ってどう思う?」

「先輩、不倫でもしてるんすか?」

「……ねえよ」

「ないっすよねぇ」

 ヤル気のない返事をする後輩は、指の動きだけは速い。仕事ができる部下を持って、私はなんて幸せなんだ。

 終電間近の電車に滑り込むと、私のようにくたびれた人であふれている。あとは、お酒の臭いのするワカモノたち。あんな時代が私にもあって、あと数年後彼らは私のようにいつでも少しだけ疲れた大人になっていく。

「ご飯、どうしようかなぁ」

 みゆきはとっくに帰っているはずだけど、特に連絡はない。気になっていたコンビニの新作でも買っていくのが無難でいいかもしれない。ついでに、デザートも買っていこう。

「ただいまー」

「わ、さとちゃんコンビニでなんか買ってきてる」

 軽く絶望したような顔をしたみゆきが玄関先で迎えてくれる。

「新作、気になってたから」

 袋を上げて見せると、少しだけ羨ましいような、恨めしいような顔でこちらを見てくる。

「……さとちゃん、私のごはんとコンビニ、どっちがいいの?」

「そりゃあ、みゆきのごはんだけど。……食べる?」

「食べる! ……その前に、私の作ったごはん食べてよ。太るとかは言いっこなし。」

 お風呂に入ると、おいで~と柔らかな声でソファの前に呼び寄せられる。

「なに?」

「帰りに見つけたの。こういうの、たまにはいいでしょ?」

 ひらひらと指でつまんだ小さな小瓶が揺れる。

「マニキュア?」

「そ。かわいくない? さとちゃんに似合いそうだなって。淡い色はどんなファッションにも似合ってくれる……はず」

「ふうん?」

 甲を上にして、手のひらをテーブルに広げる。丁寧にベースを塗って、わくわくした顔で私の指をすみれ色に染めていく。

「みゆき」

「んー?」

「……後で、私も塗ってあげる。」

「本当?」

「そういえば、明日の予定ってなに?」

「さとちゃんが食べたがってたクロックムッシュ作って、先週見れなかったDVDを見る!」

「それ、予定ないっていうんじゃん!」

「予定だもん!」

 金曜日の深夜、次の日との境目。大きくも小さくもない部屋に、私たちの笑い声が響く。私の手を押さえる指は小さくて、温かくて柔らかい。

 いつかは分からないけれど、みゆきの手が私の傍から離れていってしまうのだろう。そのとき、今夜のような、いつも通りだけれど特別な夜のことを思い出すのかもしれない。

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