なぜ、無理をしてしまう選択肢を選び続けるのか?
たぶん、自分は他人から親切に見える。
他人の感想だから、本当にそうかは自分ではわからないけど。
ただ、自分はいつも自分以外の何かに寄与している選択が多い。それも習性的に。
自分で自分を皮肉って言うならば、10代のころから、端から見ればボランティアばかりしている、人の良い「使いっぱ」であった。
そして今40代になっても、行動は相変わらずだ。
・・・
私の右足は変股症である。
脚長差が5cm以上あり、障害者手帳はないが、7級である。症状としては、股関節と下腿に障害を持っており、長時間の立ちっぱなしや歩行を続けると痛みがでてくる。
ところが、今まで関わってきた仕事やボランティアは、健常者でも辛いと感じるであろうものが多い。
イベントの大道具として3日の徹夜。
イベントの重量物運搬と高所作業と長時間労働。
武術系の模範演武の捕り手。
森の中での長時間作業。(有名アーティストの中の人、作品制作の実働者である)
とにかく、単純に体に負担の大きい作業である。
「なんでそんなキツそうなことばかりするの?」
そう言われることもあるが、端から見れば身体が悪いことに気付かれることはないし、好きで色んなことしていると思われている。
実際、これらの労働後、数日間は正常に歩くことができない。いわゆる右足が(びっこ)になってしまう。
しかし、最近になって流石に無理がたたっていることを自覚してきた。そして、少しではあるが、自分の心がモヤモヤしていることに意識を向けることができた。
しかし、なぜ自分はそのような選択をするのであろうか?
・・・
「働かざるもの食うべからず」
「他人さまの役に立たなければお前の生きる意味はない」
「お金のことを口に出すのは見苦しい」
「困っている人を見かけたら必ず助けなさい」
「あなたは自分で決めたり、自分自身を考えるのは苦手なのだから、私の言うことを従った方が良い」
私の幼少期は、そんな言葉が身の回りを飛び交っていた。
自分としては、その言葉にとらわれていたとは思えないのだが、自分の人生を生きることなど、考えることは無かった。いや、考えさせないような環境を毒親が生み出しており、その中で生きてきたのだ。
自分のやりたいことは曖昧だ。
いや、曖昧ではなかったのかもしれないが、
「それは、本当にあなたがやりたいことなの?もう少しちゃんと考えなさい」
などと言われるのがデフォルトであった。
それより恐ろしいのが、
「自分のやりたくないこと」
を、自覚できないことだ。
誰かが私に何かをお願いするとき、
自分の感覚で、
「なんかヤダ」
と感じても、それは
「自分のわがまま」
であって、罪悪感を感じるのだ。
そんな心の状況が私の人生を選択し続けてきたのである。
端的に言うと、
「自分が傷ついていることに、気付かない」
そんな自分が
ここにいる。
・・・
でも、最近少しずつ認識できるようになってきた。
ある出来事で、心が傷付いたと自覚できたのだ。それは私に向けられた他者の意志と、それを俯瞰して見ようと取り組んだ自分の意志であった。
「自分は嫌だ!」
という感情を持っていることに。
それを、感じて良いことに。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?