歌人と世界、歌人の世界(三沢左右)

 短歌に詠まれる外界は単なる世界の断片ではない。浮かび上がるのは作者と世界との関係性そのものである。近年刊行されたいくつかの歌集の都市詠や自然詠を鑑賞してみたい。

木香薔薇の配線は入り組みながらすべての花を灯してゐたり 飯田彩乃『リヴァーサイド』
一輪を空き瓶に挿し入れるやうにひとすぢの陽がビル街に射す

ゆくりなきゲリラ豪雨の美(くは)しさにソドムの民はほうと息吐く 小佐野彈 『メタリック』
曇天の瀉血のごとく朝焼けて嗚呼これこそが痛み、だらうか

 飯田は、丁寧な観察の上に過去の経験や感情を重ね合わせ、重層的な歌世界を構築する。世界を肯定的に受け容れる歌風もあいまって、歌集からは非常に豊かな印象を受ける。その豊かさは都市が歌い上げられたときにより際立つように思われるが、飯田の生活実感に即しているからだろう。
 小佐野においては、作者自身と世界とが緊密に結びつく。飯田と対照的に、世界は必ずしも肯定的には捉えられない。特に都市は、自身を苛むものとして詠まれることが多い。都市と対照されるのは身体である。身体感覚に根ざした声は読者に痛みの実感を伝える。
 飯田は経験を、小佐野は身体を景に重ね合わせ、形は違いながらも、両者とも世界の感触までも読者に感じさせる。
 以上は、景をとらえる視線のありかたについて述べたが、その視線のさらに根源にある自意識のありかたを、染野太朗と大森静佳の作品から考えてみたい。

五分前に豪雨予報のメール来て時間どおりにずぶ濡れである 染野太朗『人魚』
明けぬ夜はないというもう太陽は木槿の蘂を灼いているのに

海鳴りはあなたでしたか追いつめて衿をひらけば消えるでもなく 大森静佳『カミーユ』
一度だけ低い嗚咽は漏らしたりごめんわたしが青空じゃなくて

 染野には、世界と主体とが逆接や否定形で結びつけられる作品が多い。世界はかすかに自意識を投影しつつ、しかしはっきりと自身と断絶している。自身を特権的な位置に置くことなく、世界と等価なものとして相対化する染野の歌は、普遍的で乾いた現実感覚をもって、幅広い読者の内にしみ込んでゆく。
 一方大森の作品には、自意識が鮮烈に刻み付けられている。内面が眼前の世界を形作るとも言えよう。そこに存在するのは一人称「私」と二人称の「あなた」であり、客観的な外界としての世界は存在しないかのようである。大森の指向性の高い自意識は、その言葉の多彩さ、歌いぶりの巧みさによって読者を捉え離さない。大森の激情にひとたび呑みこまれた読者は、大森と同じ景をありありと眼前に浮かび上がらせることになる。染野と逆の意味で訴求力の強い歌である。
 現代の作者と現代の世界との間に生じる精妙な襞のような、多彩な歌の数々を、存分に楽しみたい。

文・三沢左右

歌誌「COCOON」vol.10(時評)2018.12 より転載

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