塔時評12月号(濱松哲朗)覚書

「塔」誌面の濱松哲朗による時評がおもしろかった。

塔短歌会HPより、短歌時評「短歌の「現代」を問い続けるために / 濱松 哲朗 2019年12月号」
http://toutankakai.com/magazine/post/10590/


濱松は「愚鈍化」の流れが分断を生むと書く。この問題意識が論全体にわたって展開されるのだが、話題や引用が多岐にわたるため、整理して私自身のための備忘録としたい。

なお、濱松による記事本文からの引用は “ ” で、私が整理のために要約した言葉は 〈 〉 で記す。また濱松の本文に引用される文章は加工を加えずそのまま引用するため、孫引きとなることを容赦されたい。
以下、興味深かった論点を箇条書きにする。


①国語教育について――斉藤斎藤の文章に触れて。
国語教育について、飯田彩乃と斉藤斎藤の文章を引用する。この段で濱松は “だが、そもそも作品を読解することと、作中の表現や人物に模範的道徳を求めることは別の位相の話だ。“ と結論づける。ここでいう“読解”観は、私の抱く〈文学鑑賞〉の考えと非常に近いものに感じられ、好ましいが、論点を外しそうなのであまり深くは触れない。
本記事では斉藤斎藤の主張に対して加えられた批判を取り上げたい。

②短歌定型と社会的権力について――小原奈実の文章に触れて。
濱松の論に引用された小原奈実の“「短歌定型の短さに留まりながら、言葉に内在する社会的権力関係への依存度を低めることはできるだろうか」”という問題提起はスリリングだ。
濱松はこの論点を自身の問題意識と重ね合わせ、“短歌という詩型は、いかにして現代と向き合えるのだろうか――。”と読み替え、最終段の前田透の論点と接合する。

③短歌の「現代」について――前田透の文章に触れて。
濱松の論は「現代」というテーマを提示して終わる。この「現代」は難しい。文章全体の論点を整理し、濱松の問題意識がどこにあるかを見据えた上で検討したい。

――他にも濱松は縦横に引用を駆使して論を展開するが、本記事ではあくまで私が論を追う際に目が留まった以上の3点に絞る。

以上の論点を整理し、私的メモ
濱松が時評で提示した問題意識を、ここから私なりに整理してみたい。「濱松が明快に述べていることをわざわざ整理しなくていい」または「誤読している」などのお叱りがあるかと思うが、不備などあればご指摘いただければ幸いである。

濱松は、多くの論点を、ひとつの〈構造〉の問題として説明し、展開する。その展開の過程では、引用文について、ディティールへの言及や個人的な感想などは控え目なため、読者は 読む際に抽象化・構造化しながら理解することを怠ると、途端に論の筋を見失う。そのため本記事も、濱松が問題視する〈構造〉そのものに焦点を当てつつ書き進めたい。

冒頭、濱松が引用するのは、「愚鈍化」という用語だ。

“この「愚鈍化(abrutissement)」という語は、ランシエールの『無知な教師 知性の解放について』(一九八七年、邦訳は二〇一一年、梶田裕・堀容子訳、法政大学出版局)で次のように用いられていた。「一つの知性がもう一つの知性に従わされるところに愚鈍化があるのだ」、「教えたり習得したりする行為には二つの意志と二つの知性がある。それらが一致していることを愚鈍化と呼ぶ」――。多様性を阻もうとする画一化の動きについて、ここまでひと言で片づけた言葉は他に無いだろう。(中略)更に、こうした愚鈍化の流れに多数決の論理が加勢すれば、個々人の意見などは容易に無かったことにされてしまう。” (※注 太字は原文では傍点)

ランシエールの述べる「愚鈍化」とは、「〈常識〉〈あるべき形〉として教えられたことを、個々人が完全に内面の規律にしてしまい、〈あるべき形〉の意思しか持てなくなること・それに反する意思(二つめの意思)を抱けなくなること」であろう。
例えば、「『沈黙は美徳だ』という教育を受けた者が、口を開くべき場面でも口を開くことを思いつかなくなり、口を開いている他者を見るや発言内容に関わらず批判するようになる」という具合だ。そしてこうした教育は往々にして、社会・時代全体への浸透力を持つものである。
ここで濱松は、“多様性を阻もうとする画一化” への危惧を表明する。この〈愚鈍化=画一化 の構造〉への危機感が、濱松の一貫した問題意識であり、本記事でもこの構造を踏まえて濱松の文章を読み進める。


①国語教育に触れた段で濱松は、斉藤が〈教材となる作品の発表当時の規範を、生徒が内面化すること〉を前提として国語教育を語っている点を指摘し、異を唱えている。
“だが、そもそも作品を読解することと、作中の表現や人物に模範的道徳を求めることは別の位相の話だ。" という濱松の主張をもう一度引用する。この主張で実は注目すべきは“模範的道徳を求める”という点だ。
現代では通用しない価値観、例えばジェンダー観や人種的な偏見などは更新してゆくべきなのは当然だろう。ただし、〈価値観を現代のものに更新すること〉を教育の目的としたとき、教育の先にあるのは、〈現代の常識を内面化すること〉である。すなわち、〈現代において常識・良きこと、とされる考え方は絶対的なものであり、批判など想定されない〉という価値観を全ての人が共有してしまうことである。
「言わなくてもわかる」「常識だろう」といった形で意識下に刷り込まれた多数派としての常識は、そこに疑念を抱いてしまったり、なじめなかったりする少数派に対して権威的に働く。

②小原奈実の言う “社会的権力” 、これはもちろん、目に見える形で権力を持った個人や、検閲などの公的な圧力といったところにはとどまらない。上記の〈現代の常識)こそが、批判を許さない形で少数派の行動や意思を〈社会的に、あるべき形〉に押し込める権力として働く。だからこそ〈短歌定型〉は権力なのだ。すなわち、まず“定型”こそが、短歌の〈あるべき形〉として与えられ、しかも三十一文字という極端な短さは、作者が〈あるべき形〉からはみ出すことを強く抑え込む。
あえて極端な例で言うが、たとえばSF作品に登場するようなケイ素生物の異星での日常について、その生物の認知や思考の流れまで含め、社会背景を共有しないわれわれが短歌定型で活写することは可能だろうか。
(※補足 ケイ素生物に社会があるかどうか知らないが)
(※さらに補足 活写が可能だとしたら、それは「SFの先行作品を踏まえた短歌」となるのではないだろうか)

例が不適切だったかもしれないが、ともかく短歌定型は、〈現代の常識〉すなわち同時代性や国民性といったものを根深く持つ形式であり、それは国語教育問題の〈現代の常識を内面化すること〉という論点にも通じる。
小原の “「短歌定型の短さに留まりながら、言葉に内在する社会的権力関係への依存度を低めることはできるだろうか」” という痛切な問題提起に濱松は共鳴する。濱松が強く批判するのは〈権力に無自覚な者〉、とりわけ〈自身が反権力側にいることを疑わず、その結果、自身の権力性に全く無自覚・無批判的になった者〉である。
(※補足 私見だが、〈目に見える権力〉への批判の姿勢は表面的な形で表しやすい。そうした、カッコ付き『批判的姿勢』の作者は、本人自身の目に見えにくい権力性が余計に隠蔽されやすく、結果、たちが悪いものになる…)

小原の問題提起を濱松は “短歌という詩型は、いかにして現代と向き合えるのだろうか――。” と読み換え、「社会的権力」と「現代」とを接続する。
あらためて言うまでもないことだが、〈現代の常識〉〈権力性〉を、批判することを思いつきすらしないまでに内面化することこそが、〈愚鈍化〉と呼ばれる営為である。
ここにおいて濱松の論には、〈愚鈍化〉から〈短歌の「現代」〉まで、一本の筋道がくっきりと浮かび上がる。


③前田透を引用した最終段落は欠くべき文言が見当たらないので、失礼ながらすべてを以下に引用する。

“かつて前田透は「「現代の短歌」ではなくて、短歌の「現代」が問題なのだ」、「現代風な事象を追い求めることや、表現の非定型化ということ自体のうちに現代意識があるのではなく作者が現代を感ずる態度に現代意識を云うべきである」と記した(「いかに現代を詠うか」「短歌公論」一九七〇年十月号、『短歌と表現』所収)。私たちは誰もがみな、この「現代」という時代の当事者なのである。だからこそ、批判的に問い続ける姿勢を諦めてしまってはいけないのだ。”

最終段落に来てやや唐突にも見える展開だが、〈愚鈍化〉からの論を丁寧に追ってきた読者には、濱松の問題意識がはっきりと刻まれていることが伺える。
“現代風な事象を追い求めることや、表現の非定型化ということ自体”は、現代の〈あるべき形〉に自らを従えようとすることにつながる。
「現代語で」、「口語新かなで」、「オノマトペとは」、「『われ』の表出を」…云々、さまざまな〈あるべき形〉すなわち〈社会的権力〉がある。もちろん、私たちが短歌定型を用いて表現する以上、そこから完全に脱却することはできない。しかし、現代に生きながらもそうした現代の〈権力〉構造を自覚し、常に構造を批判する視点を持ち続けること、それが〈愚鈍化〉を免れる隘路だ、というのが濱松の主張である。


……くどい文章になってしまいました。まとめのつもりがむしろ冗長に。
すっきりとした濱松さんの文章をお読みください!

濱松さんの文章に、再度リンクを張ります
http://toutankakai.com/magazine/post/10590/


2019.12.31 三沢 左右

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