祈りのかたち-林和清『去年マリエンバートで』歌集評-(三沢左右)

祈りのかたちかへぬ手があり弥勒がくる五十六億七千万年後にも


 スケールの大きな一首である。ただ、それゆえに林の歌の特質である手触りのある存在感はやや希薄だ。しかし、私はここに林が深く希求するものが潜むように思われる。本書は林の第四歌集である。この一冊を、「祈り」というテーマから読み解いてみたい。

沈黙のなかに棲みつく黒い犬を見ながら話す、いや話さうとする
善も悪もみんな燃やせば簡単だアメリカの洗濯機はごつつう廻る


 林の歌には、常にむき出しの実感がある。一首目、下の句の言いさしに身体性が滲む。この一首以外にも、間投助詞や口語・方言を用いた独白的な表現、また言いよどむようなリズムなどが歌集中には散見される。
 詩的飛躍を試みる際、林は身体性や実感を離れて言葉を操ることをしない。歌集には意外にも機知や発見の歌が少ないが、対象に触れた瞬間の感触をこそ歌に詠み込もうという意識が働くのだろう。
 東京大空襲に取材した二首目、「洗濯機」という身近な対象を用いた取り合わせと「ごつつう廻る」の方言は、前述した林の特質が余すところなく発揮されており、非常に印象的である。そして林のこの実感は、空襲というテーマからも伺えるように、「過去の記憶」、そして「死」のイメージと結びつく。

ゐないけどいつもゐるのだこれからは永久凍土のやうな記憶
くひちがふ会話の端に見えてくる記憶の池に石を投げこむ


 一首目、存在に非在が重なるという、記憶のはらむ逆説が「けど」の一語で端的に示される。記憶は現実とときに重なり、ときに食い違う。
死んでない人のことを想ふ日もあれば欅がまた葉を降らす
 生者をあえて「死んでない人」と呼ぶ、屈折した歌である。「想ふ」の語は、生者を前にしつつ「死者を想起する」ような実感を含むように感じられる。こうした感覚は歌集中に何度も繰り返される。
死んだ父に嫌はれるといふけつたいな思ひがよぎり寒夜すぐ消ゆ
父はやや窶れて来たり微笑みのまま棺にねむる死後二日めに
 父親の死に関する歌もまた、非常に生々しい感覚を詠いながらも多くの倒錯を含む。それは死者が生者を嫌い、死後に窶れるという内容上の倒錯だけではない。構成上も、一首目はp15に、二首目はp48に置かれ、死が生に先行するような時系列が現出する。

みんな父を母を老いしめ……老ゆといふ語の使役法かんがへてゐる


 さらに肉親に関する歌を引く。林が「老いしめ」に感じる引っ掛かりは、自発動詞を使役形にする不安定さによるものであるが、想像を逞しくすると、そこには「生かしむ」「死なしむ」という使役法が潜んではいないだろうか。ここに私は「記憶が死者を生かしめる」という主題を見る。
いくつもの地で生まれいくつもの地で死せる美女あり否まだ死なぬ
 小野小町を詠んだ一首。伝説的な歌人を題材に、「記憶が死者を生かしめる」という感覚が端的に詠み上げられる。この感覚は反転して林自身の存在に向かう。
 非常に林らしいモチーフのひとつに「死者に見つめ返される歌」がある。


虫(むし)襖(あを)といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな
寒月に遠く清水寺が見ゆ死者からもこちらが見えてゐるだらう


 どちらも手触りを伴う恐ろしい感覚の歌であるが、同時に本論の冒頭に置いた「祈りのかたち」の一首の時間的スケール感とも通底するようだ。
死者を見詰めることは自身の死を見詰めるということである。この営為のはらむ根源的な恐怖を、林はその感触までも歌によって表現する。
 しかし、そのまなざしが死者を通して自身に向いたとき、恐怖は反転して希望となる。林は、死者を生かしめるというモチーフを執拗に詠うことで、同時に死者と等置された自己の新生を希求する。死を恐れながら、その先に新しい形の生を見出す、そうした深い「祈り」が本歌集のテーマである。

文・三沢左右

歌誌「COCOON」vol.9(歌集in the news)2018.9 より転載

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