虚構は短歌に何を与え、短歌から何を奪うのか(三沢左右)


 以前、短歌における〈虚構〉と〈私性〉の問題が歌壇に大きな議論を呼んだ。論点や是非のスタンスには個人差があるだろうが、本稿では一首に〈虚構〉を導入することのメリットとデメリットを考察したい。短歌における〈虚構〉のあり方を三つに分類した上で私見を述べる。

・現実に基づいた虚構を詠む

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 俵万智『サラダ記念日』


 人口に膾炙した一首だが、「七月六日」も「サラダ」も事実とは異なると、俵自身がテレビやTwitter上で発言した。俵は作品の魅力を高めるために自覚的に〈虚構〉を用い、時代を代表する一首を生み出した。
 実体験を元にはしているものの、一部に虚構を交えた短歌。自覚的にせよ無自覚的にせよ、多くの作者がそのような短歌を生み出してきた。もちろん名歌も多い。しかし、事実に滑り込む〈虚構〉によって短歌から失われるものもある。それは、「事実そのものが持つ強さ」である。短歌に詠まれた出来事は、どれほどの些事であろうとありきたりな出来事であろうと、それが〈事実〉であることによって、一首の基底を支える強さをいくぶんかは持つことになる。一首に安易に〈虚構〉を交えることは、〈事実〉の強みを捨てる行為であるということに、作者は誰より自覚的でなくてはなるまい。
 では一首の魅力を高める〈虚構〉はどうすればあり得るのか。様々な意見があろうが、私は「実感に嘘をつかないこと」だと考える。

義姉となるはずなりし手と朝焼けが洗わむか空の兄の柩を   平井弘『顔をあげる』
空に征きし兄たちの群わけり雲わけり葡萄のたね吐くむこう


 冒頭で触れた、歌壇における〈虚構〉と〈私性〉論争でも、しばしば引き合いに出された歌人が平井弘である。現実の平井には兄はいなかった。平井の短歌作品に胸を打たれた読者には、事実を知って失望する者もあったことだろう。しかし、「戦死した兄と、残された弟」が仮構された平井の作品には、事実を超えて残る感慨がある。それは、平井が幼い日に抱いた肉親的な存在への憧憬であり、死と生とが日常の中で擦れあうような、戦時下の感情である。

遠花火わが白骨もかがやきて見ぬひとあまた思ひ出でつも   水原紫苑『うたうら』 (白骨…しらほね)
見しことのなべてこほれる大椿 ガラス打つとき裁かるるかな (大椿…おほつばき)


 鋭い言語感覚を持つ水原の幻想的な短歌は、しかし完全な虚構ではない。あくまで現実に立脚しながら、〈実感〉をより精緻に描き出す言葉を模索し、象徴的で感覚的な世界を高い純度で再構築する。一首目では現実の「遠花火」が骨を照らすことを、二首目では眼前の「大椿(おほつばき)」がかつて見た全てを一身に体現していることを、読者は一読のうちに感じ取る。
ある体験そのものではなく、体験の際の〈実感〉を歌の本質ととらえ、〈実感〉をより高い精度で魅力的に伝えようとする意識が、〈虚構〉を含む一首を磨き上げるのだ。

・物語(ファンタジー)を詠む

絶望があかるさを産み落とすまでわれ海蛇となり珊瑚咬む   藪内亮輔『海蛇と珊瑚』


 歌集タイトルにもなった一首。現実を大きく逸脱することが少ない歌風の作者だけに、象徴的な超現実のイメージは鮮烈だ。
 事実の配分を下げ、物語的・ファンタジックな世界を言葉によって構築しようとする短歌がある。小説や映像作品では一般的な創作方法だが、短歌において実現しようとすると、三十一文字という短さがネックとなる。こうした短歌では、叙景によって作者が外界と対峙する構造を作ることが難しいため、作者の内面の自意識や問題意識ばかりが前面に出てきてしてしまいがちだ。ともすれば「作者に都合のいい世界を作り上げておしまい」になりかねない。ここで言う「作者に都合がいい」とは、「作者の思い通りになるユートピア」の場合もあれば、「作者が批判したいディストピア」の場合もある。むしろ、後者の場合が多いのではないだろうか。当然、そうした作品は魅力の薄いものとなる。
 では、魅力的な〈物語(ファンタジー)〉作品を成立させるための要点はどこにあるのだろうか。


宅配の企業栄えて死刑囚独房にピザを宅配する話   高野公彦『水行』
瞬間に全騒音を駆逐する電波スプレーを売り出す話

 以上の二首は「新・今昔物語集」と題された一連から引用した。近未来SF的な作品群である(歌集の出版は一九九一年)。見たことのない近未来的〈物語〉は、どこか滑稽でありつつも、シーンの輪郭が立った詠みぶりによって、説得力を持つ。そして確かに、現代においてこうした情景は、形は違えどシステム化・商品化され、部分的に実現している。
 現代の社会や人間が抱えるいびつさをクローズアップするSF的風刺は短歌作品でも可能だ。しかし、作者の自意識が先行してしまえば、「不快な在り方」があらかじめ設定された安易なディストピアとなる。世界の不条理に対峙する個々の人間の在り方への意識が希薄になるからだ。
 「抑圧されている人物」と役割を決められ、その立場から動こうとしない主人公に、読者はなかなか心を動かされない。
 オーウェルの小説『1984』の悪夢的世界が現代においてもその魅力を保っているのは、主人公スミスが社会における在り方と内心との板挟みに悩み続け、恐れ、喜び、悲しむからである。
 〈物語(ファンタジー)〉世界を真に迫るものとして描き出すには、コントロールできない運命と対峙し、理解できない事象を見つめる作者の姿勢が不可欠だ。自身の思想の単なる発露ではなく、もとより矛盾を内包した現実の写し絵を描き上げるには、理不尽や不条理を見つめる強い精神が必要だ。高野の二首には、不快や理不尽を、俯瞰して見つめる視線がある。その結果としての未来予知である。


「そら豆って」いいかけたままそのまんまさよならしたの さよならしたの   東直子『春原さんのリコーダー』
ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね   『青卵』


 東の紡ぐ童話的世界は、現実を遊離しながら、しかし奇妙な存在感を持って読者に迫ってくる。意味や因果関係で収まりきらない世界だからだ。一首目「そら豆って」という言葉の文脈はわからない。「いいかけたまま」の別れというのも不思議だ。二首目も、母親と幼い少年の姿、「ママン」という呼びかけの西洋的な情緒など、ファンタジックな世界は感じられるものの、「鳥」「砂」の状況がわからない。「ないよね」という否定形の疑問に込められた感情も、半分わかって、半分わからない、というところだ。しかしそうした違和感は、必然性によって小さくまとまりかねない歌世界に風穴を空け、一首に作者個人を超えた広がりを与える。
 本章冒頭の薮内の一首にも、「海蛇」と「珊瑚」との連想の絶妙な遠さが、逆説的ではあるが、〈物語(ファンタジー)〉を支えている。たとえばもし「ゆらめく水の中を海蛇が行く」という一首だったとしたら、安易に構成された作品世界の嘘くささに読者は耐えられなかっただろう。
 〈物語(ファンタジー)〉的な短歌には、作者の主観、メッセージやイズム、イデオロギーが直接的に表れてしまう。小説に比べて格段に短い言葉で世界を作り上げなくてはならない短歌においては、善悪や条理があらかじめ決定され、葛藤が脱落した世界は、表層的だ。作者の思った通りの形に世界は作られていないということを、作者は常に意識する必要がある。

・エンターテインメントを詠む

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき   寺山修司『田園に死す』
うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く   『血と麦』


 寺山修司は、短歌にとどまらず俳句や散文、戯曲と様々な方面でその才能を発揮したエンターテイナーだ。短歌作品にも、物語性や鮮烈なビジョン、多くの人が共有する青春や内省のイメージなどをすくい上げ、凝縮して提示することで、短歌の標準的な読者を超える普遍的な喚起力を獲得した。
 しかしこうした普遍性は、通俗化・陳腐化とも紙一重だ。なぜなら、読者の興味を引くことが優先される〈エンターテインメント〉は、読者を作歌の起点に置くことで、作者自身のかけがえのない〈実感〉を離れてゆく可能性が高いからだ。その意味で、〈エンターテインメント〉には、読者に依存することで「自身の実感に嘘をつく」という最も危惧すべき〈虚構〉が潜んでいる。
 作者はこの陥穽をいかにして飛び越えるのか。


上半身が人魚のようなものたちが自動改札みぎにひだりに 斉藤斎藤『渡辺のわたし』
めざめると顔をあらって靴下をはいて出かける癖があります


 一首目、人間を「上半身が人魚」と捉える逆転に意表を突かれる。見慣れた光景を、思ってもみなかった、しかし聞けば納得させられる視点によって切り取り、読者を引き込む。ツッコミ待ちの二首目、「癖」の一言に読者はつい「そうじゃないだろ」と笑いながらツッコミを入れてしまうという形で、作品に参加させられる。「あります」という丁寧語も、読者の存在が意識されているようで象徴的だ。


卓上の『カラマーゾフの兄弟』を試し読みして去ってゆく風   木下龍也・岡野大嗣『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』
首の無いマネキンが着ていたシャツを買う僕 首を手に入れたシャツ


 二人の歌人による共作歌集から引用した。一首目は木下、二首目は岡野の作品らしい。どちらも視点の転換によって読者に新しいイメージを提示する一首だが、同時に、歌集中では「二人の男子高校生(?)の数日間」のストーリーが展開する。一冊に描き出される少年たちの内面、すなわち未来観や死への恐れと憧れ、他者の存在が希薄な閉塞感などは、〈エンターテインメント〉として青春の普遍性を保ちつつも、他者から押しつけられる陳腐な「青春」のイメージに絡めとられまいとする息苦しい葛藤に満ち、非常に生々しい。
 〈エンターテインメント〉を生む作者は、自身の〈実感〉をしっかりと握りしめた上で、読者との「共有されうる感覚」を絶えず模索することが要求される。〈実感〉を模索し、他者と擦り合わせ続けた結果たどりつく「〈実感〉の縁」とも呼ぶべき地点。ここに至って、〈エンターテインメント〉は、現実世界に働きかけるほどの力を獲得する。

・終わりに
 短歌におけるすべての虚構が以上の三項に厳密に分類されるわけではない。本論中に引用した作品も、分類は便宜的なものであり、実際には複数の要素が重なり合って成立しているものばかりである。しかし、虚構の性質を分類することで、安易な虚構が陥ってしまいがちな失敗を洗い出すことには、いくぶんか成功したのではないだろうか。魅力的な虚構に作者自身が幻惑されて、安易な創作に陥らないための手引きとして、そして何より筆者自身の創作姿勢への戒めとして、以上の論考を終えたい。

文・三沢左右

歌誌「コスモス」2020年1月号(新・評論の場)より転載

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