「人生別離足る」、侯孝賢の映画がある。

三澤真美恵

十数年ぶりに『HHH:侯孝賢(原題:HHH un portrait de Hou Hsiao-hsien)』(オリヴィエ・アサイヤス監督、1997年)を観て、少年時代を過ごした街で幼馴染と再会して急にビー玉遊びを始め、朱天文との会話で「なんだよ、(脚本は)俺のためじゃないのかよ!」と拗ねる侯孝賢の、体温が感じられるような画面に見入った。

H(染色体の形を連想させる)が3つ並んだタイトルに続くのは、自伝的作品『童年往事 時の流れ』(1985年)の冒頭場面。「この映画は私の少年時代の記憶、特に父の印象だ」と語る侯孝賢の低く落ち着いたナレーションは、これが喧嘩と博打と淡い恋に彩られた少年時代の記憶であると同時に、家族の死――結核で父が、喉頭癌で母が、老衰で祖母が亡くなった記憶を描いたものでもあったことを、一気に思い出させた。

振り返ってみれば、悪ガキの成長譚としての『風櫃の少年』(1983年)にも父との二度の別離(障害を負う前の「元気だった頃の父」との別離と、死別)が描かれていたし、『恋恋風塵』(1987年)は幼馴染でもある初恋相手が兵役中に心変わりして去っていく物語だった。『ナイルの娘』(1989)でも『好男好女』(1995)でもヒロインの恋慕する相手は死んでしまう。『悲情城市』(1989)にせよ、『戯夢人生』(1993)にせよ、劇中には家族との死別や親しい人との別離が満ちている。

そんな侯孝賢映画のなかでも、『童年往事』は「あまりに自分に近すぎ」、「どうしても客観的になれなかった」と回顧される(『侯孝賢說侯孝賢』2014年)。主な撮影は、高雄にあった侯孝賢の実家(撮影時には無人のボロ屋だったという日本家屋)で行われた(朱天文『侯孝賢と私の台湾ニューシネマ』)。

だが、『童年往事』が忘れ難い印象を残すのは、まさにそれが触れれば切れるような「近さ」で語られたこと、「義理と人情」を大切にすることで知られる彼が、他ならぬ「自分の不孝」を描いたことにあるだろう。

侯孝賢を「阿孝(アハ)」(客家語での愛称)と呼んで可愛がった祖母が亡くなった後。父母はすでになく、長女は台北に嫁いでおり、長男は都会に働きに出て、「家には僕と二人の弟だけ」。長男が戻り、葬儀屋二人が枯れ木のような祖母の遺体を動かすと、床ずれの血が滲んだ畳が映る。この強烈な痛みを伴うショットに侯孝賢自身の声が告げる。「男(葬儀屋)は僕らをじろりと一瞥した。僕らを責めていたのだろう。“不孝者め”と」。

「孝」は東アジア儒教圏の徳目における根本規範である。葬儀屋の視線が向けられる先にいるのは、開いた襖(ふすま)に縁取られた空間で呆然とした表情を浮かべる四人の兄弟だ。この、鴨居と襖の枠線で写真のように切り取られた彼らの姿が、この夏、何の看病もできないまま、防護服とフェイスシールドで隔てられた状態で父の遺体と対面した時の自分に重なった。「もっと何か出来たのではないか」。家族との死別、親しい人との別離は、残された者に自責の念を抱かせる。「人生別離足る」――「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」の井伏鱒二訳で知られる于武陵の漢詩「勧酒」の一節が頭を離れない。

『HHH』には、侯孝賢が「祖母は(大陸の故郷に)歩いて行けると思っていたらしい」と笑ってみせる場面がある。だが、今回見直して、あらためて気が付いた。この後、彼は気取られないようにさりげなく目頭を拭う。機械の目は癒えない痛みを容赦無く捉えている。

こうも言える。台湾ニューシネマが、政策宣伝と商業主義による現実逃避 の傾向に叛逆する動きとして登場したとすれば、『童年往事』はそのニューシネマの旗手と目された侯孝賢が「阿孝(アハ)」という愛称で呼ばれた自分の「不孝」、痛みの記憶から逃避することを拒否した作品だった、と。

そう考えた時、脚本家として長年侯孝賢作品に関わり、監督デビュー作『多桑/父さん』(1994年)で自らも父の記憶を描いた呉念真が、「僕は今でも『童年往事』が台湾映画のなかで最高傑作だと思っている」(『HHH』)という言葉に、よりいっそう得心がいく。癒えない痛みに真正面から挑む(『童年往事』の冒頭とラストは、父の「孝順」と自らの「不孝」を対にする侯孝賢のナレーションで縁取られている)気迫が、「静観の美学」(焦雄屏による侯孝賢スタイルの評語)に包まれている。

しかも、侯孝賢が映像として定着させるのは、出来事の決定的な瞬間、別離の瞬間ではなく、「事後」である(『侯孝賢說侯孝賢』)。人生は続く、その「続き」にキャメラは向かっていく。侯孝賢にとって大切なのは「その人間がそこに存在すること、存在感」(侯孝賢「侯孝賢の詩学と時間のプリズム」)なのだ。二.二八事件を背景に描いたことが特筆される『悲城情市』でも、侯孝賢の視点は権力がシフトするなかでの「ある家族の衰退」、「その家族」に置かれていた(『HHH』)。描かれたのは、新旧政府の交代後も途切れることなく続く時間、人々の生活であった。

『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』(1993年)というドキュメンタリー作品もある是枝裕和監督は、「そこで人が生活していることが撮れている」ことにおいて侯孝賢が理想だという(「是枝裕和:日本金獎導演開竅,靠侯孝賢一席話、一部片」『商業周刊』2013年)。2020年、第57回「金馬奨」(台湾のアカデミー賞)で侯孝賢が生涯功労賞を受賞した際には、コロナ禍にもかかわらず海を越え現地で祝福のスピーチを行い、侯孝賢を自分の「(映画的な)父」と位置づけ、「世界中にいる同じ思いの映画ファンや映画人」に言及した。「同じ思いの映画人」には、もちろんアサイヤス監督も含まれるだろう。是枝裕和もオリヴィエ・アサイヤスも、ともに侯孝賢に魅了され、その創作の秘密に迫ろうとドキュメンタリー映画まで作ってしまったのだから。

アサイヤス監督は『カイエ・デュ・シネマ』で映画批評を書くことからキャリアをスタートさせ、『HHH』も同誌の強い影響下で始まったドキュメンタリー・シリーズの一本として製作された。そうしたこともあってか、あるいは台湾ニューシネマにおける侯孝賢とエドワード・ヤンがフランスのヌーヴェル・ヴァーグにおける「トリュフォーとゴダール」に擬される(宇多川幸洋「台湾ニューシネマとは何だったのか」)からか、是枝監督のスピーチから連想してしまうのは、「ヌーヴェルヴァーグの精神的父親」と呼ばれた『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長アンドレ・バザンとフランソワ・トリュフォーとの映画的な親子関係であり、トリュフォーがヒッチコック(意外にも、アカデミー監督賞を受賞したことはない)のAFI(アメリカ映画協会)生涯功労賞受賞の場に駆けつけたことである。

もちろん、これは単なる似非映画ファンの連想ゲームのようなもので、それぞれに唯一無二である映画人の名を並べることには、それ自体なんの意味もない。だが、是枝やアサイヤスが侯孝賢からの影響を語るように、侯孝賢もまたゴダールやパゾリーニからの影響を語ってきたし、小津安二郎やアルベール・ラモリスの作品との対話によって成立した『珈琲時光』(2003年)や『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』(2008年)のような映画を撮ってきた。別離に満ちた映画でキャメラが向かうのは、事後へと続く時間であり、生活であった。だから、『HHH』の題字が染色体の形を連想させるのは、ひょっとしたら偶然ではないのかもしれない、と思うのだ。

金の盃になみなみと注がれた酒のように、侯孝賢映画を味わいたい。


初出について

『HHH:侯孝賢(原題:HHH un portrait de Hou Hsiao-hsien)』(オリヴィエ・アサイヤス監督、1997年)のデジタルリマスター版劇場公開時パンフレット(2021年)に掲載された拙稿を、配給会社オリオフィルムズの許可を得て2022年9月20日に、この三澤研究室ブログnoteに転載いたしました。その際に、傍点を削除するなど、一部をウェブ用に変更しました。


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