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個別の学びに伴走する大勢の大人たちが必要だ

 今年もやはり多かった、夏休みの宿題。

 いや、我が子はもはや自分で取り組む宿題を自分で選んでやっているので(量も質も)把握していないのだけれども、今年は我が子以外の中学生の宿題をサポートしていたので、その量や種類の多さを知る機会があったのである。そしてドリル的なプリント提出よりは「調べ学習」要素のあるものが多く、ただ「こなす」以外のスキルや知識が求められるため、苦手な子どもさんはとことん苦手だろうと察するに余りある。研究レポートにしても作文にしても、学校ではその方法論をきちんと教えてもらえていないにもかかわらず、「なんとなくできそう」とみなされているように思う。まとめ方のプリントも配布されているし、作文の書き方は教科書にも(おそらく)掲載されているとは思うが、「実際に」「具体的に」取り組む過程を個別にサポートしてもらう経験をしていないので、いざ実行しようとしてもどうしていいか分からないのは当然だ。私は車の運転が苦手なので、「このマニュアル読んで、縦列駐車できるように練習しといてね!」と言われたら「できるわけねーだろ!!」と泣いて暴れると思うが、中学生たちは内申を人質にとられているのでそういうわけにもいかない。でももし私が助手席に運転のベテランを乗せて手とり足とり教えてもらえるなら「・・縦列駐車・・やってみよう」と思えるだろうから、作文やレポート作成が苦手な中学生だって課題に伴走してくれる大人が必要だと思う。もちろん誰しも得意不得意があって、作文やレポート作成について教わらなくてもスイスイこなせてしまう子どもたちもいるだろうけれども、そういった子どもたちだってよりそのスキルをブラッシュアップするためには個別のサポートがあったほうがいいよね、と思う。

 大体よく考えてみたら、研究レポートのまとめ方なんて大学の卒論執筆時にようやく教えてもらうようなものじゃない?そしてゼミで少人数で取り組むし、実際に執筆する過程では指導教官に手とり足とり教わることになる。でも卒論はやっぱり「研究」の入り口における練習であって、本格的に学ぶのは大学院に入ってからだと思う。そんなことを中学生にサポートなしで丸投げするなんて、やっぱりおかしい。「なんとなくで、できそう」に一見見えるのが厄介なんだよね、きっと。でも研究にしても文章を書くにしてもお作法があるし、それは実際にやってみながら身に着けていくものだと思う。

 だけどもちろん私がしたのは子どもさんができることに合わせての「サポート」であって、私が宿題を肩代わりをしたのではない。例えば作文も「何について書くか」からマインドマップ作りを始めて、情報の整理・書いていく順番を相談していったけれども、書く内容を決めたのも、書いていく言葉を選んで書いていったのも子どもさん自身である。時々「その言葉をもっと書き言葉に言い換えてみようか?」「こういう言葉を使うとちょっとかっこよくない?」と投げかけたり、接続詞の選択肢を提示したり、誤字脱字を指摘したりはしたが、子どもさんは自らの力で言葉を紡いでいった。作文なんて「できない」と「思わされて」いただけで、作文の構造を示し、それを組み立てるサポートをし、途中で選ぶ言葉の選択肢を示せば、その子どもさん自身の思考が動きだし、表現が生まれる。これはおそらく作文だけではなく、研究レポートもそうだし、教科学習全般についても言えることなんだろうな、と思った。「できない」のではなくて、「できない」というポジションに追いやられているだけで、個別のサポートがじゅうぶんに(その子どもさんのペースで)あれば「できる」。ここで言いたいのは私が特別なサポートをしたから「できた」ということではなくて、何かを学ぶという時にはどうしても「個別」でのサポートが必要とされる場合がある、ということである。集団での学びにはいい面もあるのだろうけれど、そこにはやはり限界があるので、公教育の中にマンパワーを!と願わずにいられない。

 先日手厚く学習保障をしている(学習の個別最適化を目指している)公立高校の学校説明会に参加したのだが、「高校入学までの間に奪われてきた自信を生徒たちに返す」と先生がたがお話されていた。子どもたちの自信をたたきのめすような(競争と評価に晒されている)現在の学びの環境を思えば、「そうだよね、素晴らしい実践をありがとう。」と思いながらも、秒で私の口から出てきたのは「いや、まず奪うなよ。」という義務教育への呪詛の言葉だった。(←心の声がまじで漏れ出て、隣の娘が吹き出していた)ここでもまた義務教育のツケを高校が払わされているという現実をつきつけられ、「この高校の実践を、全国の小中学校津々浦々に広げていったらいいやんか。そうしたら子どもたちが自信を奪われることも、傷つくこともないのに。」と思ったらなんだか悲しくなってきてしまった。子どもたちが自信を失い傷つく現場は「もうそれはそういうもので、仕方がない」と放置され、あとから「よくあんなところで頑張ってきたね。大丈夫、今から自信を取り戻せるよ!」ってようやくケアされる社会ってなんなん?

 学ぶこと、学習することが「競争と評価」の(価値の)もとで為されている限り、相対的に「中間」からそれ以下にいさせられる子どもたちが(少なくとも)半数生み出され、自信は奪われ続けていく。個々の先生方には競争をさせているつもりはないのだろうけれど、中学校では「(高校)進学に紐づいている定期テスト」というシステムが競争を生んでしまう。また小学校では一部の子どもたちが中学受験に向けた苛烈な競争の中におり、時としてその子どもたちによって公教育の中に(学力の)序列が持ち込まれる。娘が小学校時代のスクールカーストについてポツポツと話すことがあり、「(クラスの)上のほうにいる子たちは塾へ行っている子たちだった。頭のいい人たちがいつも上にいた。」とつぶやいていたが、「それはそうだろうな。」と思った。学ぶことが競争である社会では学力上位の者が相対的に価値が高いことになるし、公教育が「学びは競争ではない」と明確に別軸のビジョンを打ちだして競争を積極的に否定しない限り、公教育の中にも学力のヒエラルキーが生まれるのは当然であるように思う。(もちろん受験を目指す子どもたちが一様にそうであるとは言っていない、念のため。)そうやって他者との比較の中で自信がじわじわと奪われていくことから逃れるために、多くの子どもたちが「その場を離れる(不登校)」選択を強いられているように思う。

 だから競争ではなくて、

 子どもたちが、それぞれ自分に合ったペースで、自分に合ったやり方で学べるといいなぁ。
 そのことを応援しながら伴走してくれる、たくさんの大人たちがいてくれるといいなぁ。

 もうね、わらわらいてもいいよね。ほんと、いてもいい。

 心から、そう思うのだ。

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