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禁止とか我慢とか

「○○しません。」

 小学校で配布されているプリントに目を通した際、ものすごい違和感を感じた「・・・しません。」の多発。なんでこんなに気持ち悪いんだろうと考えていたら、

「主語がねぇ。」
 
ということに気づいた。とはいえ、日本語はもともと主語を省略することが多いので、主語がないだけではこの違和感の正体を突き止めたことにはならない。なのであえて主語を補ってみることにした。

「わたし(子ども/児童)は、○○しません。」

 そう、どう考えてもここでの主語は、プリントを作成している先生ではなくて、プリントを受け取る子どもなのである。子どもが「わたし」を主語として書いているのではなく、先生が他人(子ども)を主語にしてしまっているところに、私の脳内アラームが発動したようである。

 じゃあどうしたらいいんだよ?と思う人もいるかもしれない。その答えは簡単である。「○○してはいけません。」と、はっきり禁止(命令)すれば済むだけの話だ。だって、その行為を禁止している/そのようにしなさいと命令している主体は、先生なのだから。まるで子どもが自ら、主体的に「〇〇しない」ことを宣言しているようにする必要がどこにあるのだろう。明らかな権力(強制力)の行使を包み隠して、子どもが能動的にその行為を選び取っているかのように見せかけるのは非常にまずいんじゃないかと思う。

 なんというか最近の学校のしんどさって、「そういうとこだよ。」と思うのである。まぁおそらくそれは学校だけに限らず、日本社会の縮図なんだろうけれど。

 他者の行動を制限したり禁止することには、葛藤や痛み、責任が伴う。本当はおそらく誰だって、そんなことはしたくない。けれどもあらゆる状況を考慮して、集団(社会)の利益のために個人の自由を制限せざるを得ない場合に、一時的に強制力(権力)を行使する立場に立たされる。その時には「なぜそれが必要なのか」を説明し、理解と協力を求める必要があるし、それが叶わない場合はなおさら「あなたにかわってこれを決断している」ことが明確になっていないといけないと思う。そのあたり(いわゆる自他境界)をぐちゃーっと曖昧にして、「あなたのため」に、「あなたがすべき行動」を、「あなた」を主体にして語るのは、権力を持つ立場の「支配」にほかならない。一見禁止や命令をしていないように見えて「しまう」、マイルドに見えて「しまう」のも、巧妙すぎてたちが悪いと感じる。まぁ、モラハラの構造と同じだと思うので、私の中のハラセンサーが「気持ち悪い」とアラームを鳴り響かせたんだと思う。

 それに加えてもう一つ。

 「・・・しません」という表現によって、それが子どもの主体的な選択であるという風を装うことに私が断固反対したいのは、子どもたちに課せられている「我慢」が過小評価されてしまうという理由からでもある。なんならその「我慢」は「当たり前」とか、「美徳」にさえすり替えられたりしていないか?でもそれはやっぱり子どもにとって我慢だし、しんどいし、大変なことなんだよ。自分のため、他者のために「当たり前」のことなんかじゃない。自由を制限されることの辛さや痛みを、権力を行使する側は「ない」ものにしたいかもしれないけれども、「ない」わけがないのだ。そこを引き受けず、ましてや「子どものため」という欺瞞にも無自覚でいることに、私は納得がいっていない。

 我が子が「学校に行きたくない」と言ったとき、私は正直自分に2択を迫られているように感じたものだった。「イヤなことも我慢できる力」を是とするのか、「イヤなものはイヤだと言える力」を是とするのか。さんざん(学校の我慢強制に)文句ブーブー言ってきた私の中にも、「やっぱり多少の我慢は必要なんじゃないか・・・」という声の主がひっそり住んでいたし、いや、今だっておそらく「我慢は美徳」勢が多少なりとも存在している気配を感じている。その勢力は、きっとこれからも根絶やしになることはないんだと思う。もうねぇ、ハッキリ言ってそれは「文化」の域だから。

 でも最終的に私が選んだのは、我慢させない方だった。それに対して「わがまま」だとか、「将来(我慢ができなくて)困るんじゃないか」という声も聞こえてきそうなんだけれども、たぶん自分が好きなこと、やりたいこと、納得したことの中で生じる「我慢」は引き受けられるんじゃないかなと思うのだ。我慢はさ、やっぱり自分で選ぶものなんだよ。我慢「させられる」んじゃなくて、その必要性を自分なりに理解し、納得して「引き受ける」ものなんだ。自分で真剣に考えた結果、納得できない「我慢」、引き受けるにはあまりにも犠牲の大きい「我慢」はお断り申し上げる権利があるんじゃないか。そういうふうに思っている。

 今「感染予防」のためにとられている様々な対策も、子どもたちにとっては非常に大変でしんどいものが多い。ここ数日「夏のマスク死ぬっ!!!」と大騒ぎしている、暑さと湿気に激弱の私だが、いやまじで気温の高い日しゃれにならんですよね、マスク着用。でももちろん特定場面のマスク着用には意味がある(と現段階の研究結果が報告されている)し、それを軽視するわけではないのだが、せめてこの過酷な我慢がなぜ必要なのか説明する義務はあると思うし、子どもたちの協力、その労を褒めたたえてあげて欲しいと思う。そして願わくば、感染の機序について子どもたちが学び、マスクを着用する場面に優先順位をつけたり、マスク着用による不利益(体調不良など)を考慮して「マスクをしない」という選択肢があるということ、その権利を有していることを知る機会を設けて欲しいなと思っている。

 話がそれちゃいましたが。
子どもの主体を乗っ取らない。私自身も気をつけたいと思っている。

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