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小栗上野介を知っているか!?

幕臣、小栗忠順(小栗上野介)!
明治政府に最も恐れられた男であり、

「明治の父」と言われてます。

しかしがら、
不幸な結末を遂げています。

群馬県の倉渕村で
彼の名前を目にしたので
調べてみました!

小栗は

・日本で初めて世界一周してます!
・日本で初めて株式会社を作りました!
「兵庫商社」
日本初の本格的ホテル「築地ホテル館」
・横須賀製鉄所(後の横須賀海軍公廠)の建設
・中央銀行の設立計画

まだまだあります!
かなり有能な方だったみたいです。

補足で
世界一周した際は、ネジ、バネ、グラス等
工業製品を持ち帰り、近代化を進めていきました。

横須賀製鉄所の首長としてはフランス人の
「レオンス・ヴェルニー」を任命。
そこで初めて、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入されます。(雇用規制、残業手当、月給制、社内教育等)

1868年に戊辰戦争が始まり
小栗は薩長軍と徹底抗戦を主張。
徳川慶喜には受け入れられずに、
ほどなく罷免されてしまいます。
後に新政府軍指揮官の大村益次郎は
「もし、その策(小栗の提案した策)が実行に移されていら、今頃、我々の首はなかったであろう」
と語っています。

罷免後に上州権田村(群馬県高崎市倉渕町)に引き上げ
新政府によって官軍に抵抗する構えをみせたとして
無実の罪で、取り調べもされずに
斬首されます。
新政府にとっては、すぐれた識見や戦術をもつ
最も危険な男でした。

新政府による一方的な斬首。
小栗の家財を競売し新政府軍の軍資金にした
という話もあり、
小栗は歴史からも抹殺されようとしたのかもしれません。
小栗は処刑の場で、家臣が無実を叫ぶと
「もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう」
と諭し
「私自身は何もないが、母や妻など、婦女子には寛容にお願いしたい」と言い残して首を差し出したそうです。
婦人は妊娠中にもかかわらず、母と養女の3人は千苦万苦の逃避行を続け、会津藩に保護されています。

上州に小栗追討に向かったの
原保太郎と豊永貫一郎の2人。
原と富永は権田村の領地を所有する
高崎、安中、吉井の三藩に小栗追討を命じました。
逆らえば賊軍になる、
三藩は小栗が反乱の意志がないのを確認し
「小栗に無謀の疑いなし」
の報告に原、富永は激怒。
すぐに三潘の兵約800名を率いて
権田村に向かいました。
小栗と家来に縄をかけて、
取り調べをせずに斬首。
殺すことだけが目的だったのです。
原はのちに、何故取り調べをしなかったの問いに
「何を問いていいか判らず、
また釈明を聞いたところで判断できない」
と素直に答えたといいます。
この時、原は22才、豊永は18才。
時代背景とはいえ、
なんとも言えない気持ちになりました。

司馬遼太郎は小栗を
「明治の父」と称し
大隈成信は
「明治政府の近代化政策は、
小栗忠順の模倣にすぎない」と語り
東郷平八郎は、
「日本海海戦に勝利できたのは、
製鉄所、造船所を建設した
小栗氏のお陰であることが大きい」
と言っています。
東郷は小栗家の遺族を自宅に招いて
感謝の言葉を表したそうです。
東郷が、小栗の名誉を公に回復した
最初の人物でした。


「費用をかけて、造船所を作ってもその成功する時に
幕府はどうなっているかわからない」
と言われて、小栗は
「幕府の運命に限りあるとも、日本の運命に限りはない。」
と答えたそうです。


倉渕町で偶然に彼の名前を見るまでは
小栗上野介のことは全く知りませんでした。
名前はメジャーではないが、
こんなに日本の近代化の礎を築いた方がいるのを知れて良かったです。
先人の作ってくれた歴史の上に
今の暮らしがある。
感謝しかありません。

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