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畑で焼き立てとうもろこしロティと、ジャイナ教視点でみる農業の殺生

「あと3年で定年退職するから、畑をやろうと思って土地を買ったんだ。今日は、畑でピクニックをしよう」。

朝のチャイを飲みながら、ラジュ父さんが提案をしてくれた。ピクニック!

スワルナ母さんと一緒に、ほうれん草カレーとなすとトマトのサブジ(炒めもの)を作って、弁当箱に詰めた。車に飛び乗って、郊外の畑に出掛けた。

家を離れること16キロ。家も殆どない田舎に車が止まると、そこが彼の畑だった。小麦にとうもろこし、それに果物の木と野菜が少し。牛が草を食み、風の音と鳥の歌が重奏している。

今はまだ会社勤めなので、週末しか来られない。すぐそばに住むヒンドゥー教夫婦に畑の世話を頼んでいる。畑の隅には、彼らが暮らす小さな家と簡素な台所。私たちの到着を、火を熾して待っていてくれた。

今年はじめて穫れたとうもろこしの粉を出してきて、マカイキロティ(とうもろこし平焼きパン)を焼いてくれた。薪の香りが素晴らしい。

「ガスで焼いたら決して同じ味にならない」などと説明されるまでもなく、たまらなく、香ばしい。畑で食べる食事は格別だ。

しかし、ふと困惑する。畑は気持ちいいけれど、自然に近い分、殺生にも近いのだ。

畑を歩くと無数の虫が足元で走り回っているし、耕そうとしたらそれこそ虫を殺めることは避けられない。それに農薬だって撒くだろう。無農薬栽培なのかなとか、虫を殺さない農薬というのがあるかと期待して聞いてみたけれど、「作物を育てるのに必要な農薬を、店の人に相談して買う」と言っていた。つまり普通の農薬を普通に撒くのだ。ジャイナ教の人々は、昔から一次産業につくのを避けたがり、商業や金融業で重要な地位を占めてきたという。彼にとって畑を耕すことは、苦痛に感じないのだろうか。

帰りの車の中で、ラジュに聞いてみた。
「畑をするとたくさんの虫や微生物を殺してしまうけれど、苦しくは感じない?」
「都会に暮らし、買ってきた野菜を食べる方が、たしかに殺生を見なくて済む。でもだからといって自分が殺生に関わっていないかというとそうではなくて、かわりに誰かがやっているんだ。自分が直接手を出していなくても、罪が無いというわけではない」

「農薬って、どう思う?」
「いい質問だね。よくはない。でも、作物を得るには必要なんだ。できる限り生き物を殺さずいたいけれど、一切何も殺さず罪なく生きていくことはできない。現代社会は、ジャイナ教が成立した2500年にはなかったものもたくさんある。考えて、判断していかなければいけないんだ」

そして神妙になってしまった空気を軽くするように、にこっと笑って付け加えた。

「自分の手で自分が食べるものを作れるというのは、いいものだね。誇りを与えてくれる」

その様子は、日本の定年退職を迎えて農業を始める人たちとまるで同じだった。

殺したいわけではないけれど、目を背けたところで生命の犠牲の上に生きている現実は変わらない。服の化学繊維も、車のガソリンも、スマホの半導体も、すべて見えないチェーンの先で何かが起こっている。食べ物の禁止ルールはわかりやすく直接の殺生を避ける方法だけれど、生きる上での殺生はそれだけではないのだ。また「ジャイナ教徒は一次産業を避ける」とは言うものの、チェーンが長くなっている現代は、それだけ避けても仕方ない。話していると、ライフサイクルの概念が加わっているような気もする。

昔より遥かに多くの判断や理解をし、ときには線引きを変えながら、私たちと同じ時代を生きているのだ。

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