サゴヤシの木からぷるぷるの団子ができるまで
「サゴヤシというヤシの澱粉を練って作る透明の団子を主食にしている人たちが、世界にはいます」
高校の地理の授業でその話を聞いてから、ずっと気になっていた。そのサゴヤシの国は、パプアニューギニアという。
ヤシが主食ってどういうこと?米や小麦じゃなくて?
どんな味がするのだろう?
どうやってヤシから澱粉がとれるのだろう?
疑問は膨らむ一方、パプアニューギニアのつてはなかなか出会えず。また女性が一人で旅するには極めて難しい国だとも聞いており、長年行きたい国リストの一番上に居続けていた。
機会が訪れたのは、東京のトークイベントでのこと。最後のQ&Aで行きたい国を質問されて「パプアニューギニアです」と答えたのをきっかけに縁を繋いでくださった方がいて、文化人類学者新本万里子氏の調査に同行する形で訪問が叶った。
サゴヤシ団子!
首都ポートモレスビーから国内便で東セピック州のウェワクという街に飛び、そこからガムテープで補修した車に乗って山道を数時間。たどり着いた山中の集落が、これから2週間滞在する場所だ。
着くなり、花輪で歓迎してくれた。ここは新本さんがもう20年も通い続けている土地。彼女が久しぶりに来るのと、新しい人間が来るということで、心待ちにしていてくれたのだ。予想外の歓迎に、不安は吹き飛びこれからの生活が楽しみになった。
最初の夕飯に作ってくれたのは、なんとサゴヤシ団子。パプアニューギニアの共通語であるピジン語では、ターニムサクサク (Tanim saksak) という。ターニムは丸めるという意味で、サクサクはサゴヤシ。サゴヤシの最も基本的な調理方法なので、単にサクサク(saksak)と呼ばれることもある。
たらいにサゴヤシでんぷんをあけ、沸かしたお湯を加えて、棒で練る。しばらくするとぷるぷるに固まってくるので、そうなったら2本の棒を両手に1本ずつ持って、水飴を練るようにしてこぶし大の団子を作っては、皿にポトンポトンと落としていく。
これが、長年夢見た、サゴヤシ団子だ!!
そのぷるぷるの上に、野菜と鶏肉をココナッツミルクで煮たものをかけて完成。食べる道具は、手だ。家族を見ていると、ぷるぷるのサゴヤシ団子を手でつかんでかじり、次に青菜をつまんで口に入れ、交互に食べている。皿の中で混ぜるのではない、日本と同じ口中調味の文化のようだ。見様見真似で私もそうする。
サゴヤシ団子は、本当にぷるぷるでおもしろい。おいしいというよりも、おもしろい。味はほぼないけれど、ココナッツミルクの煮汁をまとってちょうどいい。ほとんど噛まずに食べられるので、大人たちは文字通り「飲むように」食べていく。
ところで、このサゴヤシでんぷんは、自分たちで収穫したものだ。大きく育ったサゴヤシの木(植物学的には木ではない)を倒して採取するのだと聞いた。採取には木の成熟のタイミングと人間の都合があるからいつでもやるものではないが、「ちょうどよさそうなサゴヤシを1本、とっておいた。明日からやるぞ」といわれ、飛び上がった。
サゴヤシでんぷん採集は親族総出
Day1 ヤシを切り倒す
家からちょっと歩いてブッシュ(ジャングル)に入っていくと、ヤシとかバナナとか、いろんな木が生えている。ここはこの家族の土地だ。
「義理の息子がちょうどいいサゴヤシを持っているから、それを切らせてもらうんだ」と言って歩いていく。これだよと指さされてその木を見上げたら、頂上が見えないくらい高い。この木を倒すのが第一段階だ。まじで。大きすぎ。
持ってきた斧を振るって、幹の片方に切れ込みを入れていく。何度も斧を振るう。そのうち傾いてくるので、その不安定になった幹を竹の棒で突いて、思った方向に倒す。メキメキ、バターン。
なかなかな迫力だ。
そして、この日最後の仕事。木の皮に見えるヤシの表皮をはがす。斧を入れて切れ目を入れる。表皮と髄の間に鉄の棒を差し込み、はがすようにして開いていく。中には硬い「木の幹」があると思っていたら、でんぷんのからみついた繊維が詰まっていた。おがくずみたいだ。ヤシという植物は、年輪がなく、厳密には木ではないらしい。不思議だ。
この時、サゴヤシの表皮が直接地面に触れないよう竹のようなものを敷いていたのだが、よく見たらサゴヤシの葉柄だった。倒した木からとったものだ。うまく活用するなあ。
この日はここまで。帰宅して食べた夕飯は、サゴヤシではなくイモ。タロやヤムと青菜をココナッツミルク入りの水で煮たものだった。サゴヤシのぷるぷるを想像しながら眠りについた。
Day2 シガラピン・サクサク
翌朝。朝食を食べて8時頃に昨日の倒したサゴヤシの場所に向かったら、もう男たちが作業を始めていた。待っててねって言ったのに。
男たちは、むきだしになった髄に向かって、ツルハシのような道具と刀をふるっている。ツルハシのような道具は木の柄の先に金属製の輪がついていて、これで髄を崩す。その横で、別の若者が刀を振り下ろし、さらに小さく刻む。ヤシの髄を細かく砕くこの作業のことを、シガラピンと呼ぶ。
そのうち子どもたちもやってきて、参加した。この地域限定なのだが、サゴヤシでんぷん採集の作業には「禁忌」があって、その一つが「シガラピンは初潮から孫ができるまでの女性および同等年齢の男性はしてはいけない」というもの。月経の穢れが関係しているようで、昔は子どもや老人がする作業だったという。今はゆるくなった。
このシガラピン、作業としては単純だが、すこぶる疲れる。毎回全力で腕を高く上げるので、上腕二頭筋の力と体幹が試される。ここの人たちはみな屈強で平気そうだが、私は10分も持たなかった。そもそも振り上げたツルハシが狙ったところに落とせない。しかも地道なので結構時間がかかる。次のワッシムの作業をしながら並行して、ずっと夜までやっていたけれどそれでもこの日できたのは全体の3分の1ほどだ。
Day2 ワッシム・サクサク:でんぷんの精製
サゴヤシの髄は、でんぷんの貯蔵庫だ。おがくず状に崩されたものは、繊維の中にでんぷんが絡まっていて、さらさらしている。ここからでんぷんを取り出し精製するのが次の作業だ。
「昔ながらの方法だよ」と言って見せてくれたのは、流しそうめんのような装置を使うというものだ。そうめんの代わりにおがくず状になったサゴヤシの髄をのせ、川からすくった水をかけては、メッシュ状の「布」に押しつけ、でんぷんを濾し出す。通過したでんぷん水だけが下の桶に溜まっていくという仕組みだ。
私もやってみたのだが、なかなか力加減が難しい。メッシュの布に見えるのはバナナの木が纏っている繊維で、無加工の自然素材なので一カ所に力をかけすぎると破れてしまうし、リズミカルにやらないと搾りかすがバラバラに散らばってしまう。
気づいたら父さんは服を脱ぎ、上裸で作業していた。周りを見渡すと、男たちは続々と上裸になっていた。
それにしても、単純ながらなかなか工夫された装置だ。何よりもすごいのが、この装置自体もサゴヤシおよびその周りの植物で作ってしまうということだ。筒状の長い部分はサゴヤシの葉柄。メッシュ状の布はバナナの木についた皮のようなもので、それを留めるクリップはサゴヤシの葉柄。でんぷん水を受ける桶は、ヤシの一種の表皮?で作られている。一枚の皮が桶状になるように木で脇から支え、下にはベッドとしてサゴヤシの葉を敷くなど、仕事が丁寧だ。どこからか素材をとってきて、組み立ててしまった。みんな土木工学士だ…
水を注いで「おがくず」を押しつけ、白濁した水が出なくなったら新しいのに換えて…ということを繰り返していると、下の桶に次第にでんぷん水が溜まっていった。血の海のようだ。桶になっているヤシの皮の上端を内側に押し込むようにすると、水表面から徐々に水が流れ出ていく。
そして赤茶色の水が流れ出た後には、白色のでんぷんが顔を出した。サゴヤシでんぷんだ!
しかしこの作業は一度に洗える「おがくず」の量が少なく、効率があまり良くない。「見せるために組み立てたけど、これは昔のやり方。今はこっちのやり方でやってるよ」とその横で組み立て始めたのは、4本の支柱に木枠のネットをかけ、そこに「おがくず」を乗せてもみ洗いするというもの。ネットの下にはゴミを受けるための布袋、それからでんぷん受けのヤシ表皮がある。
こちらは、自然素材も使いつつ、ネットや紐は化学繊維。時代で進化してきたのだろう。確かにこの方法の方が、一気に扱える量が多いだけでなく、全身の体重をかけられるし左右均等に使うので疲れにくい。川の水をすくってはかけて揉んで、ひたすら作業を続けた。
多少効率的ではあるものの、時間のかかる作業であることには変わりない。母さんが差し入れてくれたバナナスープを食べ、近くのココヤシの実を落としてカラカラに乾いたのどをココナッツ水でうるおし、夕方まで作業を続けた。
シガラピンは男性、ワッシムは女性が主に担っていた。これは禁忌やルールではなく、それぞれの体力と特性に合わせた役割分担らしい。
さらに作業を続けたかったのだが、雨が降り出したので「母さんたちと一緒に先に家に戻りなさい」と言われて帰宅。男たちは雨の中作業を続けた。
日が沈んだ。18時半頃になり、夕飯の支度もできたので小雨の中呼びに行ったら、大量の白い粉が溜まっていた。これぜんぶ、でんぷんだ!
サゴヤシでんぷんは、個体とも液体ともいえない不思議な手触りだった。水溶き片栗粉をしばらく放置した後にすくおうとしてみた、まさにあんな感じだ。見た目は液体っぽいのに、手ですくおうとするとしっかりかたまってつかめる。そこで手をスコップのようにしてでんぷんをすくい、米袋にひたすら詰めた。全部で15キロ。二日間の労働の成果だ。
新鮮なサゴ団子の味は…
翌朝。昨日持ち帰ったサゴヤシでんぷんのことが気になってしかたなかった。だって家族が皆「とれたてのでつくるターニムサクサクは最高だ」といっていたから。「ねえ、昨日のサクサク…食べたい!」すると「すぐできるよ」と言ってやってくれた。
昨日とれたてのでんぷんは、まだしっとりしている。ボウルにあけて軽く水でとき、そこに熱湯を注ぎ入れると、熱湯が当たったところから糊化してみるみる透明になっていく。
練る。なかなかな重量だし、ボウルから溢れ出さないようにするコントロールする技術がすごい。
全体が透明になったら、2本の棒でくるくると丸めて、皿にぽとんと落としていく。朝の光に輝くターニムサクサクが、まるで宝石のようだ。
本当はここにココナッツミルクの煮込みをのせるわけだが、唐突だったのでそんな用意はなく、「サバ缶でいいね?」と言って母さんはサバ缶の蓋を開けた。わらび餅にサバ缶が乗ったような不思議な光景が出来上がっていった。
出来立てのターニムサクサク。輝いている!そして味は…
ない。やっぱり無味だ。著しく困惑した。だっておいしいって言っていたのに、無味なのだから。強いて先日のものとの違いを言うとすると、あの時はわずかにあった酸味が今日はないのと、食感が少しやわらかいというくらい。違いのわからない自分に恥ずかしさを覚えながらも、皆が「んー、sweet(おいしい)!」とうれしそうな顔をするものだから、それ以上突っ込んで追究する気になれなかった。
ここには二週間近く滞在したが、結局ずっとターニムサクサクは無味としか思えなくて、そのおいしさがわからなかった。最後の日。「私には無味にしか思えないんだけど、ターニムサクサクのおいしさを言葉で言うとなに?」と恐る恐る尋ねてみた。すると返ってきた答えは、「味はないよ!強いて言うなら満腹感かな。座らずに立って食べるともっと食べられていいよ」と。
衝撃だった。満腹感が得られることを、おいしさと表現していたとは。確かにお腹が満たされることは幸せだ。すごく当たり前のことを教えられた気がした。
イモ or サゴヤシ?
しかし、お腹に溜まる話ならばイモの方が優秀だ。この村は、サゴヤシだけでなくタロイモとヤムイモも栽培して食しているのだが、彼らも「ターニムサクサクはすぐお腹が空く」と言っている通り、腹持ちならばイモが優位だ。
「二日掛かりの手間がかかって、どうしてそんな非効率なことをするの?イモだけ育ててた方が楽じゃない?」と尋ねてみた。返ってきた答えは、「サゴヤシよりイモの方がもっと大変だよ。サゴヤシは収穫に手間がかかるけど、放っておけば育つ。イモは森を焼いて畑を開くところから始まって、植え付けも収穫も重労働だし、その間もずっと世話がいる。食べ物を作ることって楽じゃないんだ」と。
もう何も言葉を返せなかった。いつも自分がどれだけ楽をしていることか。
20年間夢に見続けてきたサゴヤシのおいしさは、比較的手間がかからず、腹に溜まるというものだった。無味でも、おいしいのだ。