見出し画像

【育児日記】帰宅が待ち遠しくて落ち着かない母

ふだん、ちっちは学童に行っている。
放課後は学校からすぐ裏にある学童にお友達と向かう。ハズだ。
宿題をし、おやつを食べ、グラウンドで走り回り、時に不愉快なこともあり、しかしたいていは迎えに来るのが早いと文句を言うくらいだから、楽しく過ごしている。ハズだ。

仕事中の親がどんな気持ちでいるかや、どんな問題に直面したりやらかした諸問題があり焦りまくったり冷や汗をかいたりしていることを、もちろん子供は知らない。

同じように、わたしもちっちが学校に行くまでの登校中、校内における生活、学童での過ごし方など、やはり当然知らない。

お互いに知らない時間を知らないことをしながら過ごしている。
同じ時間をそれぞれの場所で、互いの監視を受けずに生きている。

嫌なことがあっても、誤解されても、悔しいことがあっても、ちっちは一人で立ち向かわなければならない。
もちろん友達や先生といった周りの人たちの力も借りて戦わなければならない。
いつまでもお母さんが助けに入るわけにはいかないのだから。

学校という、世間と呼ぶには狭すぎるのかもしれない範囲の中で自分以外の人間と対面する。
そして、それが人としてのーー机上だけでなく生身の人間と対峙することでしか解らない一個の人間としてのーーやはり鍛錬の場だとわたしは思う。

どうしても嫌なことがあったり、これ以上は精神が崩壊すると身の危険を感じたらそこから逃げればいいと思っている。
命あればこそだ。
逃げること、回避することは決して悪いことではない。その人に、その環境が合わなかっただけのことかもしれないし、もしそうだとしたら別の場所で自分の資質を開花させたほうがずっと良い。

もちろんそれは大人のわたしにも当てはまること。

しかしまあ、今の話にはそんなことはあまり関係ない。

わたしは会社勤めをしている。
平日に休みが取れるのは月に三回ほどだ。
そんな週はたいてい土曜日が出勤になるから、ちっちは人数が少ない土曜の学童に気が進まないながらも登所せざるを得ない。

少ない平日の休み。
そんな日、わたしは家でちっちを待っている。

小学4年生のちっちは家に直帰できるのが嬉しくて仕方がない。
「おかえり」と出迎えてくれる母親が待っているからだ。
……いや、そんなわけはない。
帰宅後、自転車に乗って友達と遊びに行けるからだ。

母であるわたしは、自宅で迎えられること自体が嬉しい。
そろそろ帰ってくる頃合いと思うとそわそわし出す。
何度も壁掛け時計に目をやる。

玄関の鍵を開け、ドアから外を覗いてみたりする。
玄関掃除をしてみたり、申し訳なさ程度の庭の植木に水をやったりし始める。
家の前に生えた雑草を抜いたり、帰ってくる方向に首を伸ばしたり、また雑草を抜くためにしゃがんだり。
時には曲がり角まで迎えに行く。
ちっちが恥ずかしい思いをしないように、一緒に帰ってくるお友達に見つからないように細心の注意をする。
なんの気ない散歩みたいなふりをして、のんびり歩いてみる。

でも、ちっちの姿はまったく見えない。

わたしはまた来た道を、なんの気ない様子を繕いながら家に戻る。
あーあ、と思う。
いつも帰宅途中の姿を目撃できないのだ。
どんなふうに帰ってくるのだろう。
お友達と何を話しながら帰ってくるのだろう。

わたしは部屋に戻り、ソファーに腰を下ろす。
そのうち元気に帰ってくるさ。
自分に言い聞かせたりしている。

しかし、またすぐに玄関に出てみたりする。
それからまた部屋に戻って時計を見上げる。
ちょっと帰りが遅いんじゃないか?

だだいまーー!

その直後に玄関のドアがすごい勢いで開かれる。
同時にちっちの力の満ちた声が響いてわたしはキッチンで飛び上がる。

あたふたと玄関まで小走り。
ちっちは靴を脱ぎ終えたところ、といった具合だ。

元気に帰ってきた、私の胸上ほどの背丈になったちっちと正面から対峙し頭やら肩をなで回す。
久しぶりに顔を見た犬の全身をごしごしなでる主人みたいだな、とやってしまった後でいつも思う。

額に汗したちっちは「暑い、暑い」と暗に離れてよと訴える。

元気に帰ってきた、それだけで無償の喜びが広がる。
母は単純だ。
「だって、待っていたんだもん」
恋人を待つみたいな言い訳をしているうちに
さっきまでのそわそわが一気に静まり、安堵に浸っている自分を発見する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?