見切り発車で良い
物事をスタートさせる時、わたしはある程度のメドがついたらさっさと始めることにしている。
完璧を目指すと続かないから。
あまり上等なものを目指すと、自分の低級さにうんざりきたりガッカリきたりして結局何も始められないままになってしまう恐れがある。
変なところでプライドが高いと、完璧にしなければとそちらの方に気がいき、目の前の手を動かすことが滞ってしまう。
結局人間は行動したかしないかがすべてであって、心のなかで親切を思っていても行わなければ誰も助からないし、壮大な素晴らしい計画を立てても実行しなければどんな建築物も建たないのである。
材料を集めた、人も揃えた、設計図は引いた。ならばあとは司令官がスタートの決定を出せばいいだけの話である。
もっといいものができるはずと完璧を求めて設計図をあれこれいじっていたり、今は始める時期にふさわしいか、あるいは誰かの意見が気になってスタートする決断ができないでいる……
そんなふうに迷っていたら、いくらいい設計図を書いたとしてもそれは時間のムダである。
すべて形に現れないものは日記と同じなのである。
もちろん中には人命に関わるような大きな仕事もあると思う。ちょちょいのちょいと設計図を引いて、面倒だから柱を一本外しちゃいましょう、床板も価格を考慮していくぶん薄めでもなんとかなるでしょう、なんてことをしていてはいけない。
そういう種類の設計図の話をしているわけではない。
もっと日常的なレベルの話である。
以前は完璧を目指しすぎてやらずに終えてしまったものがいくつもある。
設計図を引いている時は本当に楽しいし、たまに自分は天才ではなかろうかと誇大妄想に取りつかれ、それはそれでいい気分になる。
ところが振り返ってみれば、これは世の中の人のためになると平和的な気持ちになることもあったのに、結局やり通したどころかスタートさえしていないものが大部分である。
これでは一体何のために自分の時間を費やして計画を立てたり設計図を描いたりしたのか分からない。
人生の持ち時間は有限なのである。
やってみたいことがあれば、いますぐにでも着手すべきである。
いっそ「どうせいつまで続くか分からないのだからまずは始めてみよう。ダメだと思ったらやめればいい」と軽い気持ちで最初の一歩を踏み出すのがいい。
わたしには何かを始めようとするときにもじもじと迷う過去があった。
それを多少なりとも改善させてくれたのが、加藤諦三先生の著作の中にあった「まず最初の一歩を踏み出せ。第二歩目は一歩目を踏み出してから考えればいい」という言葉だ。
次にどうしたらいいだろうか、続けられるだろうか。そんなことは一歩目を踏み出してから考えてもいいことだ。スタートした人にしか見えない景色があるし、改善点もみえてくる。そんなことはスタートしてから手直ししたってなにもまずいことはない。
パソコンだってタブレットだってスマホだって、みんな日々アップデートしているではないか。不具合がありました、では改善しましょうと。
常に最新のバージョンを目指して機械は手直ししていく。
恥ずかしげもなくどんどん行う。それは使用者にとっていいことだから。いいものを提供するためだから。
それならばなぜ人がそれを行ってはいけないのか。
コンピュータだって行うのに、どうして人間がバージョンアップさせてはいけないものか。なんの恥ずかしいことがあろうか。
プライドが邪魔するのだろうか? プライドは必要だが、その類のものはプライドではない。見栄である。
スタートさせてから改めたいことがあればその時に手直ししていけばいい。
最初から完璧なんて目指さなくていい。
人間と同じこと。
どんどん経験して、そして反省して、改めて人として大きくなっていく。
その人間が行うことに、始めから完璧なものなどなくて当たり前なのである。
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