善意は狂気で満ちている

誰の言葉か忘れたけれど、「手を貸してくれと頼むと頭までついてくる」というのを聞いたことがある。貸してくれる側はむしろ善意の塊で頭まで貸してくれるのだから、当然喜ぶべきことと思うかもしれないけれど、実際にはどこまでが親切か見極めないと難しい。気持ちが入りすぎると、その発想にその人の性格まで反映されることになり、正常な判断ができていないときに気が付けない。たとえば心配性な人は未来の小さなデメリットまで隅々と想像して「もっと世間の目を気にして服装とか整えた方がいいんじゃない」と考えてしまう。実際はその発想に7倍ほどのネガティブなバイアスがある。

受け取る側も善意の大きさが分かってるし、実際に手を無償で貸してくれることがあるから、どこまで相手を否定していいのか分からなくて困ることがある。感謝をとにかくしておけば、相手がどんどん善意で手を貸してくれる回数が増えるともなんとなく分かっているからだ。ただし、善意に応えすぎると、相手は受け手の人生まで操らなければ気が済まなくなることになる。

「手を貸して欲しい」と頼まれたら手を貸すのが正解で、「頭を貸して欲しい」と言われたら頭を貸すのがいいのだけれど、そんなことは誰も教えてくれるわけがないし、知っていたとしても善意の途中でそれを忘れてしまう。

自分語りは個人的に嫌いだけれども、僕は両親が違う宗教に入ってるという意味の分からない家庭で育った。二人とも当然善意の塊の性格をしていて、互いを否定するとき以外は悪口や愚痴など言わない素敵な両親だった。僕は末っ子だからか、そのおかしさを一身に受けて育ったので、元々明るい性格だったのが極度のストレスで精神的に弱くなり、統合失調症になったのだと思う。同時に何を信じればいいのか分からなかったので、学校をさぼって、駐車場で寝転がりながら「物事の本質は事実と違うのではないか」と考えて過ごしていたのが大体14歳前後のことだった。みんな馬鹿だから勉強してるんだろう、なんて調子に乗ってた部分もあるけれど、人間が後天的に身に着ける知性のクリティカルシンキングを、そのとき身に着けたのだと思う。

「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉も最近に聞いたけれど、面白い言葉だなと深く感銘を受けた。なにせ善意の方が狂気に満ちていると感じれる社会だ。悪意を隠さず持っている人はむしろ明るい性格に見える。

哲学で有名な「トロッコ問題」も似た性質がある。一人を犠牲にして五人を助けるか、五人を見捨てて何もしないか。哲学だいたいの全てに言えるが、個人で考えようとすると狂気を孕んだ答えがよく出る。一歩引いて「社会や法律に乗っ取って考えると何が正しいのか」を見る必要がある。たとえば、「トロッコ問題」ならば自分で操作したら法律上自分が捕まるかもしれない点を考えてから行動するならば、だいたいの人が納得できる答えが見つかるだろう。「捕まりたくない」と思うなら五人を轢けばいいし、「それでも」と思うなら一人を犠牲にすればいい。人は協力して知識や知恵を積み上げたのだから、今さら哲学的問題など考える必要がない。集団に乗っ取って善をすればいい。個性的な人が狂気に見えるのは、一人の視点で考えるからだ。

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