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【万物の根源は水である】


[27] Ἀρχὴν δὲ τῶν πάντων ὕδωρ ὑπεστήσατο, καὶ τὸν κόσμον ἔμψυχον καὶ δαιμόνων πλήρη.

(タレスは)万物の根源に水を置き、さらに、世界は生き生きとし神霊に満ちているとした。
ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』[I 22-44]

 実はソクラテス以前の哲学者たちの著作はほとんど残されていない。彼らの言葉がなぜ今にまで伝わっているかというと、のちの人々の著作の中で「・・・はこういった」という形式で彼らの思想が伝えられているからである。タレスもその一人。「万物の根源は水である」という言葉で有名だが、その言葉はこのようなディオゲネスのような人たちによって生き残ったのである。
 ディオゲネスは広くソクラテス以前の哲学者からアリストテレス以後のストア主義の人たちまで幅広く彼らの生涯や思想を集積し紹介した人である。それが『ギリシア哲学者列伝』という形で、著作となっている。
 さて、言うのを忘れていたが、この文章は『ギリシア哲学者列伝』のタレスの章に登場する。つまりここに書かれているのはタレスの思想なのだ。タレスは大抵、哲学の始まりのように紹介されるが、そのようになったのは、アリストテレスがタレスを最初の哲学者としたからである(『形而上学』参照)。彼自身は自らのことを哲学者だとは思っていなかった。またミレトスの自然哲学者に位置づけられるわけだが、水に関する言及よりも、神霊(神々)に関する言及が多い。ソクラテス以前は神話と哲学の過渡期である。しかし何なにがしかの自然(水、火、空気)に言及し始めたというのは、何らかの新たな時代の息吹を感じさせてくれるものとなるだろう。
 文法に関して言えば、まず主語(タレス)が省略されている。そして一つ目のκαὶ以下の文章のἔμψυχονは述語的な意味合い。文法書をみてもらうとわかるのだがκόσμον τὸν ἔμψυχονだったり、τὸν ἔμψυχο κόσμον のように冠詞が形容詞の直前に来る場合は「生き生きとした世界」という風に属性的な意味合いになる。πλήρηも同じである。しかしなぜ対格なのか?おそらくεἶναιが省略されているからだろう。不定詞の意味上の主語は対格となる。

Lives of Eminent Philosophers. Diogenes Laertius. R.D. Hicks. Cambridge. Harvard University Press. 1972 (First published 1925).

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