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神となる御霊

『十 神となるミタマ』
古くから日本人は、男は日子(ひこ)、女は日女(ひめ)と呼ばれてきたように、死後の世界でも○○○○彦命または○○○○姫命と称されるようになります。

※霊璽(みたましろ)は戒名ならぬ霊号がつけられます、この霊号には上下の位階などはありませんが、○○○○彦命などつけられ誰でも幽冥の世界に入ると神となり、子孫から拝まれるようになります。

伊勢豊受大神の詞官中西直方歌集「神道百道」(1708年)の中に、
日の本に生まれ出でにし益人(ますびと)は神より出でて神に入るなり
という歌があり、益人とはよき人の意で、この場合「人々」と広く考えてよいでしょう。

つまり日本人として、この世に生まれた全ての人々は、祖先の神のミタマを受け継いできて、再び祖先の神の懐に帰るのだというものです。

いわば神道の死生観をこの歌に託したものと言えましょう。

仏教界では、生きている現実の世界を此岸と言い、死後の世界のことを彼岸と称してきました。そしてその境界を三途の川と呼んでいます。
そこには遠い十万億土の地であって、生前の業によって地獄と極楽にわけられていくと言うのが仏教の初歩的な導きでありました。

これに対する神道では、故人のミタマは親族や家族と共に留まり給うという考えに立っております。

ですからその最も身近な所にあるのが祖霊舎(わが家)なのです。

そしてもう一つは鎮魂社(奥津城)に鎮まるのであります。
※奥津城(おくつき)=墓所

3つ目は自分が生まれ育った氏神の地、つまり郷土に留まるものとされています。

ですから私たちの死後の霊魂は遠い宇宙の彼方に漂うものではなく、わが国土と我が家に留まって、子孫の繁栄を見守っていくと言うのが、神の道のことわりということです。

祖先の道

神道のお勉強という訳で、神話の神様をお祀りすることが=神道という考えの方が多いので、今回は記事にしました。

これは厳島神社崇敬会だけの特殊な考え方ではなく、全国一般的な教えであり、たまたまコチラの崇敬会では、きちんと一冊の小冊子にまとめられ神葬祭のことなど詳しく書かれています。

どこにおいても日本は、自然崇拝と祖先崇拝の二つの理念を基に継承文化が育まれてきました。

明治政府の一神教政策によって、幽斎神事や神葬祭などの夜に行われる神事を廃止され、夜の境内を灯す灯篭も使われなくなり。
さらにGHQの政策によって、神社で集会を開くことが出来なくなり神道については話すことも禁じられてきました。

このような歴史背景から、神社には「家族が亡くなった忌服期間は神社に入ってはいけない」という近代の考え方になりました。

※神道だけではなく「道」と付く、柔道・茶道・書道・華道・武道などすべて、GHQによって禁止されていた時代があったのです。今こうして残っているのは、民間の習い事として残した人々の努力の賜物なのです。

そして亡くなった時の神葬祭(幽祭)は神社で行われなくなり、仏教式による葬儀の方が親しまれるようになってしまったのです。

またこのようなことは本来の在り方に正すことによって、日本の文化の継承はできることですが、明治政府が政策として立ち上げた神社庁は、それまでの文化を一新するために立ち上げられた機関であり、ほぼ明治の時代にそれぞれの地域で土着信仰として親しまれた祭りや文化は、斎主家系の解体により同時に失われてしまいました。

継承文化を解体し、一神教政策による祭神入れ替えを行った機関が全国の神社を監督しているわけですから、古式伝統を重んじる古風な考えは風前の灯火となっております。

私は、土着に残る痕跡を発掘するように断片を繋ぎ合わせることで、大事なことを未来の子孫に遺せるのではないかと思い日々勉強しております。

※一神教政策による祭神入れ替えは、主に土着の珍しい名前の祭神や、物部のニギハヤヒなどの祭神を、すべてアマテラスやスサノオなどの神話の神々にする政策でした。

日本の教えが失われつつある現代の日本に、本当の教えが甦りますように。

〈春分や秋分の日とは〉
本来は、古来から春季祖霊祭と秋季祖霊祭が行われていました。
(春季皇霊祭・秋季皇霊祭)

万葉集の時代には日本に初めて訪れた僧侶が、この日本の風習を見て「死んだ人を神様として祭りを行うとは、なんと珍しい民族だ」と当時の驚きを歌にしているそうです。

それが現在では、春の彼岸として春分と名付けられ、秋も同様に秋分の日になりました。

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