宗教になりたかった

 

今ある「何か」を失うのがこわい。
 
失って初めて大切さに気付く、なんてこれだけ生きていればとうに知っていて、それを忘れて蔑ろにして「何か」を失うやつは馬鹿だ。失うことが怖くて、何にも出来ないおれはもっと大馬鹿だ…
 
 
だから僕らには宗教が必要なんだ。
それは神様でも、アイドルでも金でも夢でも愛でもいい。僕らを決して裏切らない、何も失くさない(あるいはそれに気付かないで済む)ような宗教が。
何かを信じることは、否定するよりずっと楽だ。誰かの言葉を信じるだけで何者かになれる。自己を肯定してもらえて、集団からそれにそぐわないものを簡単に排除できる。
空っぽだなぁと思う。
嫉妬や羨望、コンプレックス。僕らは穴だらけで、空気を入れても入れてもどこかから漏れていく。変わらない何かが自分の中にあることで、空っぽの自分を否定したいんだよな、みんな。僕もそうだ。
 
他者を利用して自分だけ満たされようなんて考え方はたしかに肯定されるべきものではなくて、この国では大いに否定的なんだけど、それでもやっぱり誰もが幸せになりたいと思っている。愛があれば、交友関係があれば、金があれば!満たされるならそれもいい。
もちろん他人様に迷惑をかけてはいけないけどね。決して幸と不幸は等価ではないから。
 
一番大切で一番難しいのが、空っぽの自分を肯定することだ。足りない自分を大切にすることだ。これは一人ではひどく難しくて、二人だとすこし容易になる。誰かを愛することだけが、自分を愛することに繋がるからね。
だから愛こそが、僕にとってはずっと宗教なんです。
 
譲れないものって、君にもありますか。僕には愛があった。情があった。ひとを赦すことも、赦されることも出来た。
何にも無い人が必死で見つけた「自分」が例え間違ったものでも、否定する気にはなれない。たとえば目玉焼きにケチャップ、靴を履くのは左足から、服はあそこのブランド、車は赤、筋トレ命。それぞれの宗教がある。
それぞれの真実を抱いて生きて死ぬ。それはとても幸せなことだと思う。
 
絶対的な真実が自分の中に満ちている限り、この世のいかなる事柄も真実たり得ない。
覚えて帰ってください。

『あらゆるものごとのなかで一番悲しいのは、個人のことなどおかまいなしに世界が動いていることだ。もし誰かが恋人と別れたら、世界は彼のために動くのをやめるべきだ』
トルーマン・カポーティ


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余談ですが、適職診断というのをしたら大抵は向いてる仕事なんて無くて、芸術家や「宗教家」を勧められることが多い。
好かれもすれば嫌われもする。
僕も、そんな宗教になりたかった。
 

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