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雨あがりの夕暮れどき        ~Drive my car~

この映画は観たい人が見に行く映画、なんだなと思った。        朝一番とレイトショーの一日二回公開。朝一は夫を送り出してすぐに出ないと間に合わない。その自信がなくて迷っていた。しかし、何とか家を出発できて、上映の10分前には着くことができたので鑑賞することにする。

観ておきたい映画だな、と思ったが迷っていた。映画としての評価はすでに国際社会にまであったが、演技についての意見がわたしには聞こえてこなかった。原作の映像化というところの期待が大きかったのかもしれない。

前半三分の一は本題に入る前のストーリーということであったが、欧米仕様に洗練されたシーンが続いていた。Japaneseではない感じがした。そのシーンに流れる感情も男性の方は乗り切れてない感じがして、でも、このストーリーとしてはそれでいいのかもしれない。その乗り切れていない、感情を出せていない、というところはこの映画の全編に漂っていたように感じた。男性の感情がもっと豊かであってもいいのではないかと感じた。

この映画で印象的だったのは、雄弁な沈黙・表情豊かな沈黙であった。ラストシーンもそうであったが、とても濃密なメッセージと共にコミュニケーションがそこにあったと感じて、わくわくした。これほどまでに手話の世界が雄弁であることを初めて知った。彼女の美しさは手話に表されるメッセージだけではなく、その人がそこに居ることにあった。とても美しいシーンであった。

その美しさと対照的に、ドライバーの寡黙さもまた雄弁であった。    その出で立ち、目つき、表情、態度、気遣いはドライバーの静けさの中で際立っていた。人はその人生の流れの中にあって、それぞれの光を放ちながらそこにある。この二人の女性の生きざまが、今この文章を書きながらこの映画のメインストリームであるように感じる。

若い役者は人生を棒に振ってしまったが、自分に正直に生きていた。その分別の無さからくる暴力性が彼を破滅に導いてしまった。そこに彼の妻はいたのか?彼の妻は触発したのか?

自制心の強い夫は最果ての雪の街に着いて、ドライバーの放しを聴いて、自らの至らなさに気がつく。そのような言葉を発していたが、感情は表出されていただろうか? 心底分かったのだろうか。

生きるということの心理的に深いものが底辺に流れていた。この流れは日本の映画ではなかなか感じられない。それは原作の成せる業であると思う。 その視点でもう一度観てみたい映画であった。

迷ったけれど観ることができてよかった。感謝。


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