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風の音と、心の音~「聴こえないこと」の思索と物語

難聴児医療・教育界の92歳の長老、田中美郷先生が教えてくれたこと②

初回のこのシリーズでは、半世紀にわたり、医師でありながら、そのワクを超えて難聴児の療育に携わってこられた田中美郷先生の思いや、そのベースとなった哲学に迫ります。
 

▼CORテストの開発で、難聴が早期に発見されるようになったけれど

第二次世界大戦が終わり、干支が一周りしようかという1957年。日本がサンフランシスコ講和条約に署名した6年後の春。信州大学医学部を卒業した田中美郷(よしさと)先生は、同じ信州大学医学部耳鼻咽喉科学教室に勤務することで、医師としてのスタートを切りました。
時あたかも、教室長だった鈴木篤郎先生が幼児難聴に取り組み、乳幼児難聴の早期発見のための検査機器を開発しようと、科をあげて盛り上がっていた時期です…。
 
1960年には、鈴木篤郎先生は“条件詮索反射聴力検査=CORテスト”※を学会に報告。
この検査法が開発されたおかげで、それまで3,4歳にならないとわからなかった子どもの難聴が、生後6、7か月の乳児の段階で発見されるようになりました。
このCORテストは、当時世界的に注目され、現在も使われる画期的な検査法です。
(※CORテストは、母親に抱かれた乳幼児を検査機器の前に座らせて行います。乳児の前方、左右にはそれぞれスピーカーが置かれ、音を出すほかに、スピーカーに設置された人形を照明で照らせるようになっています。片方のスピーカーから音を出し、何秒かずらして照明がついて人形が照らされる。その繰り返しを通して、乳幼児は「音がした方を見ると光がともり人形が浮かび上がる」ことを学びます。こうして「音がしたら、その方を見る」という条件づけを繰り返し、音の大きさを変えながら聴力測定を行います。)
 
信州大学では、このCORテストを武器に幼児難聴の外来を開き、子どもの聴こえに不安を抱える親たちが次々に受診しました。
ちょうどその頃、アメリカ合衆国・フィラデルフィアにあるジェファソン医科大学に2年間国費留学されていた田中先生は、留学を終えて日本に戻ると、その特殊外来を任されました。
そして、この検査機器を使い、訪れた乳幼児が難聴かどうかを、日々診断されたのです。
 
ところが難聴であると診断をしても、その後に教育をしてくれるところがほぼありませんでした。
難聴を早期発見できるのはいいニュースなのですが、聾学校の幼稚部は、当時4、5歳にならないと入れません。つまり、子どもが難聴だとわかった親は、すぐに何とかしたい、手を尽くしたいと療育の場を求めるのですが、受け皿となる機関がなかったのです。
 

▼聾唖者という存在について

若き医師、田中美郷先生は行き場を求める難聴乳幼児とその親を見るにつけ、自分が子どもの頃に見かけた聾唖の人たちの姿が、頭に浮かんだそうです。
その人たちは、生まれながらに耳が聞こえないばかりに、言葉も話せず、相手の言っていることも理解できず、何とか身振り手振りで生活するものの、知的障害とみなされ生きていました。
 
農家に生まれれば、見よう見まねで農業を手伝うことはできます。女性の場合は家事を手伝うこともできます。それでも、自分が出会った聾唖の人たちは、本来獲得できるはずの人生を得られないままに、不遇な中で生きているとしか思えませんでした。
 
昔は聴覚障害が生れながらのもので、しかも重い場合、聞こえる親の元で言語を獲得することは困難でした。
そして「まったく言葉を獲得できない」という、第二の障害を背負うことにもなったのです。(※どれくらい聞こえないのか、どのように聞こえないのかは、聴覚障害児・者によってそれぞれです。聞こえないすべての人がそうであったということではありません。)
 
田中先生は、1979年に出版された鈴木篤郎先生との共著 『幼児難聴』(医歯薬出版)のなかで、こんなことを書いておられます。
「そもそも難聴児は一般的にいって、難聴という障害を除けば本来普通の子どもと変わりはない。したがって周囲の人々と関係を持つことへの欲求も普通の子どもと同じにあるが、身振りしか表現手段がない場合には、自分の伝えたいことを相手にわからせようとしても通じない場合が多く、このためにこれらの子どもは傷つけられ、他人に当たり散らしたり自分の殻に閉じこもることになる。
これがなんら解決されぬまま成人に達すると、しばしば精神病※と誤られて不幸な運命をたどることにもなる」(※現在では使われない言葉ですが、1979年出版時のまま、引用しています。)
 
聴覚障害はコミュニケーション障害とも言われます。ほとんどコミュニケーションが取れない中で成長していった場合、こういう辛い状況も起こり得たということです。
でも、田中先生は、重ねてこうも書いておられます。
 
「しかし実際には難聴によって二次的に生じた特性にすぎない。
それだけに本来予防可能のものであり、このためには難聴児をできるだけ早期に発見し、乳幼児期から対策を講じてゆくことが要求される」
 
若き医師の田中先生は、幼児難聴の外来で「難聴」と診断された乳幼児と親を見るにつけ、「何とかしてあげたい」「救えるものは救いたい」という思いを強くしていきました。
 

▼言葉を爆発的に獲得していく発達段階を逃すな

田中先生は「難聴が発見されたからには、乳幼児期から療育を始める必要がある」と考えました。それには、大脳生理学に基づく理由もありました。
人が言葉を話し、言葉を聞いて理解する一連の流れは、大脳の特定の場所にある言語中枢で営まれるのですが、この言語中枢が出来上がっていくのは生後2か月から5歳の時期だと言われます。
また、一般的に1歳になる頃に「マンマ」「ニャンニャン」などの意味のある最初の言葉を発語し、2歳ぐらいになると言葉の数が急に増え始め、あっという間に、2語文、3語文を話すようになります(個人差があります)。
そして、言葉を獲得するための脳の働きがもっとも活発になるのは3歳前とも言われます。
難聴だからと、そのチャンスを逃すのはあまりに残念です。手をこまねいて見てはいられない、現場にいる自分が何とかしなくては…、ということから田中先生の格闘が始まりました。
 

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