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追悼:木村隆之先生

 2022年10月13日、サバティカル(研究専念期間)中にも実施していた博士課程のオンライン自主ゼミを終えて、翌日(14日)の日本経済学会での報告用スライドの最終確認を行っている時に、その電話は来てしまいました。

「本日、木村先生が亡くなられたそうです」

 慌てて彼の電話に連絡を入れてもつながらない。

 Lineを入れても既読は付かない。

 意を決して、その共通の知人から教えていただいたご家族の電話番号に入れると、13日の授業に出てこず音信不通になったことから心配した大学から依頼を受けた警察によりマンションの自室内で倒れているのが発見され、ほどなく死亡が確認されたと、妹さんから説明を受けました。

 その後のことは、余り覚えていません。
 複数の先生から連絡をいただき、翌朝まで私のサバティカル中の代打として彼に非常勤をお願いしていたビジネススクールの講義(14日に初回講義がありました)の取り扱いを決めていただきました。
 茫然自失としたまま日本経済学会の会場である慶應義塾大学三田キャンパスに向かい、求められるままに「大学教員の婚活」についてユカイな話をして、帰宅後に、SNSに上がる木村先生への追悼文を眺めつつ、ようやく彼の死が現実であることをゆっくり理解していきました。

 あの日から二ヶ月以上すぎました。表面上はカラ元気を維持していましたが、私の状態を気にしているメールやDMを頂いても返事も返すことが出来ていません。『そこそこ起業』の連載や『アプリ本』のゲラチェックをこなすのが精一杯で、それ意外の生活能力を完全に喪失してしまっていました。なにせ、彼の死から一ヶ月ほどはろくにメシが喉を通らない上、一時期は心因性の味覚障害にまで陥ったほどでした。

 私もようやく落ち着いてきました。それに、そろそろ立ち直らないと、木村さんもおちおち安らかに眠れないでしょう。

 今年の悲しみは今年のうちに。

 私が知る限りの、彼の人物像と足跡を振り返る追悼文を捧げたいと思います。


木村隆之という男

 2007年頃だったか。私の講義に出てきては、毎回、前列真ん中の目立つ位置に座っている中年男がいました。当時、私が勤務していた滋賀大学には夜間主コースがあり、社会人入学の学生の多くが所属していて、その一人なのだろうとは思っていました。
 社会人編入の学生は概ね、一般の学生より熱心にノートを取っているものなのですが、その男は何かを確かめているような、評価しているような鋭い目をしていました。一言でいうと、生意気な目をしてました。

「先生、〇〇先生の本ってアカンと思うんですが、なんであんなに売れているんですか?」

 ある授業が終わった後、その男は超弩級の質問を私にぶつけてきました。
 
 おいおい、〇〇先生と私が結構深い関係だと知っての狼藉か!
 
 そこに苦笑しつつ「おう、どこがアカンと思う?」と聞き返したとき、彼が答えた内容はたどたどしくはありましたが、常々私が考えていた〇〇先生の論文や書籍の問題点でありビックリしました。

 この無礼な男が、木村隆之先生でした。

 その日から、彼とは授業が終わる度に私のところに来ては1〜2時間話をするという関係になりました。5割くらいは研究の話、残りはどうでも良いダダ話をしているなかで、彼という人間の面白さを知っていきました。

 彼は、社会現象に対する確かな洞察力があり、社会科学系の論文・書籍の良し悪しを嗅ぎ分ける独特なセンスが、学部学生時代から備わっていました。

 彼は、英語はからっきし読めないし、日本語の文章力にも欠けていて、気づいていること、考えていることの3割も表現できませんでした。

 後に、彼の研究者としての最大の武器にもなる前者の能力は、高校卒業後に花き農園やトラックドライバーなど職を転々ととする中で身につけたストリートワイズが、行政コンサルタントとなり活動していくために読み込んでいった様々な文献が彼の中で融合する形で身につけていたものでした。
 この能力については、身内の贔屓目抜きにして、同年代の経営学者の中で上位にあったと思います。そうでなければ、高卒でありながら売れっ子講師としてコンサルタントを勤められなかったですし、彼が見つけてくる調査対象は「アタリ」といってよいほど上質なものばかりでした。

 他方で、正規のルートで高等教育を受けておらず、行政コンサルタントとして「コンサル構文」的な書類作成に長けていったことで、自分が考えていることを論理的に表現できないという、言語面でのハンデを抱えてえしまいました。

 気づいていること、考えていることの半分も表現できない彼にとって、饒舌に理論を語りながらも社会と向き合っていない研究者は、怒りの対象でした。自分でも解ることを気づかず、「教授」でございと偉そうにふんぞり返っているんじゃねぇと。同時にこの怒りは、コンサルタントの現場で求められるまま、問題や限界の有る「理論」とその理論に基づいて作成される「マニュアル」を「良きこと」として語らねばならない、自分に対する嫌悪感の裏返しでもありました。

 私と出会って2年が過ぎ卒業が目の前に迫ったころには、経験知に裏付けられた社会現象に対する鋭い洞察力と未熟な言語能力に起因する自己嫌悪と怒りは、彼の中で学問に対する純粋な憧憬へと昇華され、「経営学者になりたい」というストレートな欲求へとつながっていきました。


木村先生が残した功績

 木村先生は、首都大学東京(現東京都立大学)に移籍した私を追いかけて、2011年に博士後期課程に進み、本格的に研究者への道を歩み始めました。コンサルティング業務との兼ね合いで修士論文は人的資源管理で学位取得し、研究者を目指すにあたって新たに設定したのが「まちづくり研究」でした。

 彼は行政コンサルタントとして地方に幅広いネットワークを有しており、「まちづくり」に関して豊富な調査先を有していたこと、「まちづくり研究」が日本では都市社会学や村落社会学、行政学が中心になっており彼が苦手な英語文献を余り読まなくても論文になること、当時私がソーシャル・イノベーション研究を次の研究テーマとして準備を進めていたこと……といった理由から「まちづくり研究」を当面のテーマとして設定し、将来的にはソーシャル・イノベーション研究で博士論文につなげていくという構想を、二人で話し合って決めました。

 そこからの木村先生の働きぶりは、正直、目覚ましいものでした。
 旺盛にフィールドワークをこなし、学会報告を繰り返し、私に何度もダメ出しされながら諦めずに論文を書き続け、ついに『日本ベンチャー学会誌』に掲載された「遊休不動産を利用した「利害の結び直し」として読み解かれるソーシャル・イノベーション」が2015年度の清成忠男賞の本賞を受賞し、同年に九州産業大学に専任講師に着任しました。

着任後一時期は研究活動が停滞したものの、フィールドワークを継続して行い2018年に博士号を取得し、2019年には私と石黒先生(東京経済大学)の共著で出版した『ソーシャル・イノベーションを理論化する:切り拓かれる社会企業家の新たな実践』(文眞堂)は、NPO学会賞を受賞しました。この本は我が国におけるソーシャル・イノベーション研究の一つの到達点として評価されていますが、取り上げた事例の多くが木村先生が発見・開拓してきたものです。

 この2つの学会賞と書籍の出版によって、木村先生は学会的にも世間的にも「まちづくり研究・ソーシャル・イノベーション研究の第一人者」という評価を獲得したわけですが、指導教員として理論面のとりわけ大きな貢献を2つ上げておきたいと思います。

 木村先生と私は、ソーシャル・イノベーション研究に根深く潜む理論的課題である「スーパーヒーロー仮説」(ソーシャル・イノベーションの成否を特異な能力を持つ個人=社会企業家に還元する説明図式)と制度的埋め込み(ソーシャル・イノベーションが制度設計によって誘導されるとする説明図式)の対立、更に新自由主義を前提とする米国式と保守主義・社会民主主義を前提とする欧州式の理念レベルでの対立に対して、抽象(理念)具象(制度)の混合たる社会の中で新たな公共を生み出す実践の担い手として社会企業家を位置づけ、その具体的な実践(社会企業家による異種混合の新結合)を分析対象とするという、新たな理論的視座を打ち出してきました。

 この新しい理論的視座のもとで、木村先生は社会企業家による「理念レベルの統合」をソーシャル・イノベーションと捉えてきた先行研究に対して、抽象具象の存在を媒介とした利害マネジメントをソーシャル・イノベーションとして捉えるという、新たな新たな社会企業家の実践を明らかにしました。
 ここでいう「抽象具象の存在」とはベンチャー学会賞受賞論文で木村先生が取り上げた「有給不動産」であり、『ソーシャル・イノベーションを理論化する』で取り上げた障害者の就業支援事業における各種支援制度であり、更には市町村合併時の合併ビジョンと計画、会議の編成でもあります。
 有給不動産という具体的な物質から、市町村の合併ビジョンのような抽象的な理念レベルのものまで、社会企業家はそれらの「存在」を掲げることで利害関係者を識別し、利害を結び直すことでソーシャル・イノベーションが実現していく。彼の研究活動で最も評価されるべきは、この新たなソーシャル・イノベーション像を提示していったことであるでしょう。

木村隆之が目指していたこと
 アカデミックポストも獲得し、博士号も取得し、学会賞も受賞した。
 そこで人生がゴールしてしまっても仕方ないのですが、彼自身が「教授でござい」とふんぞり返ることが許しませんでした。

 木村先生は「学問」に対して純粋な憧憬を抱えてこの道を選び、実際に大学教員になった後に目指したのは「社会と向き合って理論を語れる研究者」になることだったのだと、今になって思います。

 研究者なのだから、社会のために「理論」を語り、役に立ちたい。

 そのためには、社会に接点を持った状態で「研究」をしなければならない。

 その考えのもとで、2018年に『ソーシャル・イノベーションを理論化する』を出版してから亡くなるまでの4年間、心血を注いだのが九州産業大学ソーシャル・イノベーションセンターの設立と運営でした。
 このセンターには、彼がこれまでに見出してきた抽象的・具象的存在を媒介とした利害マネジメントとしてのソーシャル・イノベーションを、一方では具体的なビジネスモデルに落とし込む形で学生に教えつつ、他方ではイノベーション・センターに彼がこれまでに獲得してきた企業家・社会企業家をアドバイザーや客員研究員として招聘し、学生と結びつけていくことで九州産業大学から連鎖的に企業家・社会企業家を生み出していこう、という狙いがありました。

「このセンターのこと、オートエスノグラフィーで書けますかね?」

 2022年の初春、福岡で木村先生と面会した際、木村先生は私にそう訪ねました。

「いけるね! 日本のBengt Johannissonを目指せるよ」

「よはんそん、って誰でしたっけ?」

「『ソーシャル・イノベーションを理論化する』の最終章で私が取り上げているやん! 社会に介入する研究実践を行うのが、ソーシャル・イノベーションの主体としての研究者の役割だって。Johannissonの活動と論文の書き方が、木村さんの参考になるで。私には一生かかっても出来ないし、それが木村さんが日本のベンチャー研究者の中でも、唯一無二の価値になるで」

「読んでみますー」

 わずか4年の間に、複数の学生企業家がこのセンターを通じて誕生し、文科省からも注目を集め始めたところでした。相変わらず英語論文が苦手で、私が紹介したBengt Johannissonは読めていなかったようですが、「5年後くらいにこのセンターの経験を本にします」と話していました。

 地方の私立大学、しかも文系学生が中心となりつつ企業家・社会企業家が生み出される場がどのように設計・運用されていったのか。その機会が創設に尽力した当事者の目線から語られる機会が失われてしまいました。
 このセンターは、後任の先生が引き継がれ運営が続くかと思います。木村先生の理念を引き継いでとは言いません(彼にしか出来ないこともあったでしょうから)。ただ、この施設が一日でも長く続き、木村隆之という面白い教員が九州産業大学に居たのだということが、語り継がれていくことを願っています。

 また、水面下で彼と協同で進めていた「ライフスタイル企業家」の研究プロジェクトも、将来的にこのイノベーションセンターにビルドインしていく構想を有していました。そのためには、来年度には研究書を出版しなければと、具体的な調査と執筆スケジュールを相談していたのが10月10日、彼の死の数日前の出来事でした。「ライフスタイル企業家」という新概念の一番の理解者である彼を失ったことが、残念でなりません。
 この研究プロジェクトについては、当初の構想から大きく修正が必要になりましたが、私がなんとか完遂させます。

さいごに

「先生、美化しすぎですよ」

 この追悼文を読んだら、木村先生はそう言うだろうね。
 でも、死んだ後に、皆に残る記憶の姿くらい、綺麗に残しても問題ないやろ?

 私なんて、『婚活戦略』なんて本だして、うかつにも売れちゃったから、死んだ後も「日本で一番恥をかいた経営学者」の称号確定やで?

 お互い欲と煩悩まみれの人生を送ってきたし地獄行き確定だろうから、ちょっとまっていてください。
 そう遠くない頃に私も逝くから、慌てて輪廻転生の行列に並ばないように。向こうで話さなきゃいけないこと、いっぱいあるで。ちょっと待っててな。

                                   合掌

                             2022年12月31日


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