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どうでも良い話④:やっと、お別れ

昨年3月に亡くなった、坂本龍一氏(以下、教授)の遺作、Opusをようやく見に行くことができた。
実は、ゼミのOBがこの映画の広報に関わっており、私のXで教授についてちょこちょこ呟いたり、リツイートしているのを見て、「すごくいい映画なので、是非見に行ってください!」と、公開直前にメールを貰っていた。

じゃあ、行くか。いや行かねばならないと心に決めてから、実際に映画館のシートに座るまで二ヶ月以上の時間が必要だった。

ただただ、私の教授に対する思い入れが、とても強かったからだ。

私は世代的に、YMO直撃世代ではない。音楽に夢中になったのは20歳を超えた頃からなので、遅咲きだった。同世代が夢中になった「アイドル」や「イカすバンド天国」も素通りだ(部活と受験勉強で手一杯だった)。それが、大学3年生頃〜30代の間、教授の曲を聞きながら学術書や論文を読み、論文を書く生活を送っていた。たぶん、デビュー作の『千のナイフ』から、『BTTB』位の間の作品を、繰り返し聞いていた。
 
音楽的素養らしきものがほとんど無い私が教授の音楽にハマったのは、たぶん「自分の創作に自覚的であり、言葉で説明できる人」だったからだと思う。
高橋幸宏さんが、TV番組(たしかソリトンSide-Bだったと思う)、「教授は鬼才で、細野さんは天才」といっていたと記憶しているのだけど、言いえて妙だと思う。言語化して理解できる根拠がないと、教授は作曲をしない。90年代半ばに異常な売れ行きを見せていた小室サウンドを聞いて、「なんでこれが売れるかなぁ」と首を傾げた後に、「でもこういうのが売れるんだよな」といった数年後に、「The other side of love」でキッチリ狙ってヒット曲を出したのには痺れたのを覚えている。

教授は素晴らしい実績を上げた音楽家であるけども、ピアノ演奏者としても、クラッシックや現代音楽の作曲家や編曲家としては一歩足りない人であったと思う(実際、そちら方面ではそういう評価出会ったと思う)。更に言えば、ロックやポップスの素養を学ぶことなくスタジオミュージシャンとして活動を始めたことから、商業音楽シーンの最先端には常に後追いで学習していた。それ故に、教授が提供した歌謡曲や、アルバムで発表したボーカル付きの曲は、どこか歪な手触りを感じさせるものが多かったように思える。

実は、教授は不器用な人だったのだと思う。学問的に学んできた音楽理論をもとに、ミュージシャンとして商業音楽市場で経験したことを反芻し、理解し、言語化したうえで、「商業音楽のパッケージング」に仕立てることを繰り返していた。本当は「細野晴臣的に」あるいは「高橋幸宏的に」、その気になれば「小室哲哉的」に綺麗にまとまった曲を書けるのだけど、「理解できないものを書くことも、演奏することもできない」から、「無理やり理解して作る」ので、出来上がったものは「どこか歪」になってしまう。そして、それが「世界のサカモト」の個性として受け入れられたのではないだろうか。

そんな教授だからこそ、「経営学の研究者になる」と決めた、苦闘していた20代の私は、深く思い入れを持ってしまったのだと思う。
それは、自分自身が「得意なことは、天然で出来る」人間ではなかったからだ。釣りも、野球もバレーボールも、勉強も、研究をすることも、そして文章を書くことも、「なんとなく」できたことは一度もない。それどころか、「見て憶える」とか、「体で学ぶ」こともできたこともない。
「なんでそうなるのか?」、「どうしてそうせねばならないのか?」を調べて、理解して、言語化した上で、自分の体験を通じて反芻して初めて、「出来る」ようになる。「見ることも練習(勉強)」とかいう指導者は、その時点で信頼できなかった。私は、そういう不器用で不自由な子供だったからこそ、教授に憧れた。「経営学という世界」で、「歪なところ」を武器に変え、自分が生き残れるスペースを作ることが出来る指標として、心の何処かにずっと、「教授」の仕事のやり方があった。

実は、この15年ほどの間、教授の音楽から意識的に離れていた。それどころか、あれほど夢中に追いかけていた教授の発言も、意図的に耳を閉ざすようになっていた。
きっかけは、2001年に発表された「ZERO LANDMINE」と2004年の「Chasm」だったと、今になっては思う。この頃を境に、急に政治的発言が多くなった。それも、全共闘世代の教授にとっては青春時代から続くリアルかもしれないけど、明らかにお花畑の空想的な理想論を勉強不足のまま語り始めた。音楽活動で得た知名度と立場を、そのために利用し始めた。
「あんたのやりたかったこと、それなのかよ!」と、はっきりと幻滅した。同時に、この体験は私にとっての「自立」の時だったと思う。

だからこそ、最後の演奏が映画化されると聞いた時、「見なければならない」という思いと、「見たくない」という思いを同時に抱いた。50も目前に迫り、気がつけば学術と商業の間で「経営学」をいかに成立させるのかという、若かりし頃の教授と同じ苦悩(というと不遜ですが)を抱えるようになった。一方では、そういう自分を生み出してくれた「職業上の心の父」の最後を看取らねばならないという気持ち。他方では、「心の父」であったからこそ、醜態を見たくないという気持ち。だから、座席を予約して見に行くと決めるのに、2ヶ月もかかってしまった。

今まで経験したこと無いくらい、重い足取りで教授が音響を監修した 109シネマズ プレミアム新宿に向かった。座席に座ったときには、上映5分前だ。それでも、「ここで帰りたい」という気持ちは消えなかった。

ナレーションも説明もなく映画は始まり、教授の演奏が始まってしまった。やせ細り、鍵盤を叩く力も、指の動きも弱々しい。それほど音楽に詳しくない私にも、「あれ、タッチミスした?」と思う音がちょこちょこ混ざっている。私が「教授離れ」していた15年間の間に発表された7曲目までの演奏を聞いている間、ずっと悲しくて仕方がなかった。

様子が変わったのは、8曲目の「美貌の青空」だった。
サビ(と言うのが正しいのかわからないけど)のところで、いきなり不協和音が響き始め、教授の顔から初めて笑みが溢れた。あきらかに、おかしくなっていく曲調に、教授は一瞬、鍵盤から手を離す。その後、その不協和音を活かしながら、これまで聞いたことがないくらい、パッシブでエモーショナルな「美貌の青空」を弾き切った!

更に11曲目の「東風」。演奏前に、何か考えながらサビのところを音階や和音を微妙に変えながら弾いているシーンが少し入る。そして、実際に演奏に入ると、やはりサビの部分で不協和音が鳴り響く。よく見ると、黒鍵しか叩いていないし、明らかにそこから生まれる「音」に反応して、新しい「東風」が生み出されていった。

その後の「the Sheltering sky」、「The Last Emperor」といった代表曲の演奏にも、同じ様に原曲とも、過去のピアノアレンジの曲とも異なるアレンジが入り、演奏は力強く、教授の顔も喜びに満ち溢れていた。

ここでようやく、7曲目まで「タッチミス」と思っていた音が、このアレンジのための「練習」だったのではないか、と思うようになった(同じようなタイミング、タッチでちょっとした音が入っていたので)。そして、8曲目を過ぎて、教授は「最後の創作」の瞬間を私達に見せてくれたのだ。
最後は全盛期の力強さを取り戻しつつ、人生最後の演奏という思いがこもった「Merry Chrismass Mr. Lawrence」を、あえて「皆が知っている名曲」の姿のまま弾ききってくれた。もう、涙が止まらなかった。

死後に、環境保護云々の遺言だか遺書だかを取り上げ、政治利用する輩が出てきた時に、「教授、あなたが残すのはそんなもので良かったのですか」、と悲しい気持ちになっていた。

でも、それは誤解だった。「教授=坂本龍一」は、最後の最後に音楽を選び、不器用で、歪なままに、ピアノと会話する姿を皆に見せることを選んでくれた。

それを確認できただけで、十分です。

ようやく、ずっと言えなかった「お別れ」を言えます。
教授、安らかに。


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