まえおき:ラディカル・フィールドワークに向けての論考をはじめてみます

 今年のGW中にふと、「自分がどれくらいフィールドワークをしてきたのか」ということが気になり、カウントしてみた。修士論文のために初めてインタビューを経験した大阪ガスの新規事業開発から最新の婚活のフィールドワークまで。1998年から2020年までの22年間、論文や書籍、学会報告として発表されたものから、企画倒れになったりとても表に出せない内容であったりして断念した未発表のものまで含めて、毎年1〜3の調査企画を立てて、合計で150人くらいの人にインタビューしていた。経営学者としては、割と多いほうなのではないだろうか。

 とはいえ、この程度の調査の場数やインタビュー人数で胸を張れることは、多分無い。10年ほど前に研究会でお会いした民俗学者の先生は、日本国内の全ての島に訪れ、聞き取り調査を行っていた。あの世界だと、同じ村落に十数年単位で通い、聞き取り調査を行うなんてふつうのコトだ。あの分野では、若手の頃から、自分の研究テーマに合うフィールドにどっぷり首まで浸かるように、教育されているように思えた。
 よりすごいと思ったのが、彼らが聞き取り調査の回数や量や期間、フィールドへの没入具合を、誇ることがあまりないどころか、論文の正しさ担保するために利用しようとする意識そのものが希薄であるように思えたことだった。
 確かに、フィールドで見聞きし、聞き取り調査で聞き出した「事実」ベースで論文を書き、学会の場で論争をしている。でも、そこにあるのは、その事実を切り取ってきた筆者の論考の「キレ」を議論していこうとする、学会レベルでの共通認識だった。
 
 翻って、経営学の世界では、となるとなかなか悲しい。フィールドワークをもとに研究を続けてそろそろ23年目。いまだに、学会報告や論文投稿に際して、「客観性が担保されていない」とか「極端な特殊事例に注目した研究で、その結論を一般化できない」とか言われ続ける。
 アンケートや統計を駆使して定量的研究を展開している先生にそういう苦言を呈された場合は、「ゲームのルールが違うから」とまだ納得できるし、「あなたのゲームのルール、おかしくないですか?」と論争の余地がある。ただ、同じようにインタビューで論文を書いている先生まで、「客観性ガー」、「一般化ガー」と論争を仕掛けて来たときは、膝から崩れ落ちるような脱力感を感じてしまう場合が多い。いやいや、よそはよそ、うちはうちなのだから、それを受け入れて研究するのが、大人の対応なのかもしれませんし、それをうまくうっちゃらかして論文を雑誌に載せ、書籍を発表したほうが良いというのも正しいとは思う。

 とはいえ、この数年、フィールドワークをめぐる経営学と他の研究領域の認識前提レベルの落差は、自分自身にも責任があると感じるようになった。
 私はこれまで、『制度的企業家』の第15章「企業語りに潜むビッグ・ストーリー」で、ライフヒストリー・アプローチの方法論について議論したり、『ソーシャル・イノベーションを理論化する:切り開かれる社会企業家の新たな実践』の結言で、研究者と現場の関わりについての議論を発表してきた。
 ただ、フィールドワークという方法は何なのか、ということをテーマにした論文や書籍を書いて来たわけではない。自分の中では、フィールドワークには研究としての執筆戦略という次元から、研究者としての社会参加の次元まで整理されていて、「客観性ガー」、「一般化ガー」という論争自体にも決着がついている。ただ、それを自分の中で完結しておくのではなく、何らかの形で外に発表していかない限り、「客観性ガー」、「一般化ガー」という(私にとっては)不毛な議論のなかで、フィールドワークという試みが経営学で足踏みを続けてしまうという、危機感を感じている。

 じゃあ、なんでこれまでやらなかったのかというと、簡単に言うとニーズがなかったから。もちろん、経営学の世界において定性、定量にかかわらず方法論に関する研究のニーズはあると思う。ただ、これを正面から議論する論文を投稿しようにも、学会誌の趣旨に合わなくて査読が通らない可能性が高い。方法論だけの本を出そうにも、学部や大学院で「定性的方法論」の授業を開講しているケースが稀なので、出版社もそんな本をそうそう引き受けてくれない。私自身、名前だけで本が売れるような存在ではないし、この先にそういう存在になる可能性も相当に低いわけで。

 大学の紀要でちょこちょこ書いて発表していく、という方法もあるにはある。ただ、今回はnoteを発表の場に選んでみることにした。紀要に掲載するチャンスは年に数回だが、noteなら発表したいときに発表できる(業績にはカウントされないけど)。経営学者の極マニアックな議論に、日常社会を生きる読者の方がどのような反応をするのか、というのをリアルタイムで体験できるのも非常に面白そうだ。なにより、フィールドワークの方法論に関する議論をnoteに発表していくことそのものが、ネット上での言論活動というフィールドワークにもなるという二重構造になりうるという点でも魅力的であると思った。

 というわけで、エッセイよりはマニアックに、論文未満ではありますが、私が暗黙知的に蓄積してきたフィールドワークの方法論を整理していくために、「ラディカル・フィールドワーク」というシリーズをはじめて見ることにしました。
 「ラディカル・フィールドワーク」は今、直感的に思いついたタイトルなので深い意味は有りません。ただ、フィールドワークを利用した研究に対して「客観性ガー」、「一般化ガー」と質問してマウントとろうとする人の認識前提に石を投げつけてぶっ壊す、という意味ではラディカルではあると思います。

 折を見ての不定期更新になりますが、お付き合いいただければ幸いです。

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