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私が私にしてあげられることを考える

小4と小2と年長の子を育てている三児ママです。

7月から始まった子どもたちの夏休みも気づけば2週間が経っていて、あっという間に8月。
まだ7月だったカレンダーは、今朝8月に変えたばかりだ。

7月、夏休みの始まり

我が家の小学生たちはというと、夏休み開始からわずか3日ほどで宿題のほとんどを終わらせていたような。(幼稚園児はお製作を楽しんでいた)

学校や幼稚園がある日々から突然の長い夏休みになることも、夏休みが明けて学校や幼稚園が始まることも、どちらも私にとっては「環境の変化」であることに変わりはなくて、それは私の精神状態を不安定にさせるにはじゅうぶんすぎる刺激だった。毎年のことなのでさすがにもう慣れたと思っていたし、毎年のことなので一昨年よりも昨年よりも今年は心構えができていたと思っていたのだけれど、やっぱり思うようにはいかない、夏休みの始まりだった。

いつも対処法がわからない

精神状態を不安定にさせる、と書いたけれど、具体的にこれがこうなる、というのが自分でもよくわからないのが現状で、だから対処のしようがなくて困っている。頭が痛むなら頭痛薬を飲むとか、胃が痛むなら胃薬を飲むとかなにかしら対処できるのに、どこがどうおかしいのか、苦しいのか、自分のことなのにこれがどうしてもわからない。わからないから、症状はこれです、こんなふうに困っています、と説明することができないから、病院にすら行くことができない。第一、何科にかかればいいかわからないし、適当に選んで受診してみたところで、「今日はどうされましたか」に対する答えを、今の私はなにも持っていない。

この人はなんて言ってほしいんだろう、と考える

友人・知人はもちろん、整体であったり、いつだったか随分前に受診した心療内科でさえ、なにか回答を求められるとつい「この人は私になんて言ってほしいんだろう」「どう答えるのが正解なんだろう」と考える癖が私にはある。いつからそんな癖が身についたのかはわからない。おそらく育った家庭環境が原因だとは思うけれど、根拠はない。
例えば整体。
施術後「ちょっと動かしてみてください。さっきと比べるとだいぶ軽くなっていませんか?」などと言われたとき。正直、軽くなったかどうかなんて私にはよくわからない。わからないということはつまり、「さっき」となにも変わっていないのかもしれない。それなのに私は「わあ、本当だ!すごく軽くなりました・・・!」などと言ってしまう。わからないのに。
例えば心療内科。
相談したいことはたくさんあった。つからった。無性にイライラしたり、希死念慮があったり、突然涙が出てどうすることもできなかったり、眠れない日々が続いたりもした。それでも「今日はどうされましたか」と穏やかな表情で尋ねる担当医のそれに私は、たぶん、きっと、その担当医と同じような表情で「ちょっと・・・最近イライラしやすくて・・・」と弱々しく答えることしかできなかった。
ろくに相談という相談もできないまま「そんなに酷くはなさそう。躁鬱とかだったらもっとこんな感じになるから、大丈夫だと思うよ。とりあえず漢方出しておくね。いきなり抗うつ剤とか出されたら怖いでしょ。」といった感じで流されるように診察は終わった。漢方薬と睡眠導入剤を処方された。流されてしまう自分が悪いのに、言いたいことが言えない自分が悪いのに、こんなはずじゃなかったのに、と、悔しくて悲しくて涙が出た。

この類の話はまだまだたくさんある。
なにも解決していないのに、なにひとつ納得していないのに「なんか、話していたら楽になりました」「もうちょっと肩の力抜いてみます」。
なにひとつ、楽になってなんかいないのに。

今の私ができることなんて、これくらいしかないけれど

今のところ私が私にしてあげられることは、自分の中のもやもや、イライラ、行き場のないあれこれをどこかに吐きだすことくらいしかないのかもしれない。そんな思いもあって、こうやってだらだらと、思ったことをぽつりぽつりと、ときどきわーわーと、書いてみようと思った。だからたぶん、有益な話とか、特別おもしろい話とか、そんなことは今後も書かないし書けないと思う。なにをしていても楽しいときもあれば、なにをしていてもつまらないときもある私が筆者である以上、「これ、1つ前の記事と書いているひと一緒?」となる可能性だってある。でもそれが私という生き物なのだし、面と向かって本音を言うことができない私のような人間が、この小さな画面の中で私を私のまま生存させてあげようとすることくらい、許されるんじゃないかな、と思うのです。

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