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時の流れと想いの流れ

マナーとはなんだろう。

最近ネット界隈だと、茶化されがちなマナー講師によるトンデモマナー。書類への捺印はお辞儀をするように傾けるだとか、そういうのね。まともな教育を受けてきて、常識を備えている人間には、それがありえない話だとわかるだろうと思うけれど、自分がどうすべきかわからない状況にあった時に、簡単にWebで検索してしまい、トンデモマナーを見つけてしまった時に、それを鵜呑みにする人がいるのかも知れない。

マナー講師の言っている話すべてがおかしなことではないだろうし、彼らは新たな案件に出くわした時に、過去の知見をもとに新たな案件にはめ込んでいく結果、わけのわからないものを作り出してしまうのかも知れない。

最近だとWeb会議での映像の配置だとか、マスクの色の話とか。過去の慣例を今新たに出てきた事象に割り当てて見事に失敗した例だろう。

マナー講師としても、依頼を受けたために考えをひねり出して答えたのだろうけど、本来であれば、「そんなこと気にする必要はありません」って答えてくれれば良い話であっても、仕事として対価を得ることを優先するあまりに、わけのわからないことを口走ってしまうのだろうなぁと思う。でも、翌々考えてみると、私達がまぁそれは妥当だなぁと思っているマナーもそれを言い始めた頃はトンデモ系だったのではないかと想像する。お茶の席で茶碗を手に取り2回回すとかもそうじゃない?茶碗の柄がどうのこうの、亭主への経緯がどうのこうのって、昔の人だって「こちとら客人じゃい!」って思う人も多くいただろう。でも、茶道の世界ではそれが常識としてまかり通っている。

それとは逆に、時代とともにそぐわなくなってきているものもありそう。

例えば、時候の挨拶

時候の挨拶ってのは、今と違って友人との交流がそれほど頻繁にできない状況だったり、日々生きながらえることがとても難しい世の中だったりしたことが原因で、自然と生まれた言葉じゃないかなぁと思っている。分かりやすいところで、新年の挨拶。今年の無事に新年を迎えられたという意味を込めて、「あけましておめでとうございます」とお互いを祝しているのだろう。そう考えると、昨日も顔を合わせて仕事をしていた仲間に改まって、新年を迎えた喜びを分かち合うってのも何だか変だと思うよね。

時候の挨拶もそうなんだけど、特別な場所での挨拶って特に不思議に思う。

便利だけど、中身を感じない言葉っていうか、何を思ってそう言ってるの?と問いただしたくなるというか。

先日、私の周りでは人が死なないという話を書いた。

私自身がこういう考えをしているから、特にそう思ってしまうのかも知れないのだけど、葬儀の場での代表的な挨拶。「この度はご愁傷さまでした」ほんとこの言葉、何なんだろうって思う。どれくらいの人が「愁傷」という言葉の意味を理解して使っているのだろう?「嘆き悲しむ」とか「傷をうれえる」という意味だそうだけど、ほんとそんな意味を込めて使ってるのだろうか?何だかよくわからないけど、こういう時はこう言うと刷り込まれて使ってないかな。

たしかに失礼な言葉ではないのだと思う。でも、心がこもってないなら、必要がない言葉なんじゃなかろうか。だいたい、「ごしゅうしょう」って、油断してたら噛んじゃうでしょw

もし、私が喪主となるときがあれば、そんな言葉より、黙って涙の一つでも見せてもらえた方がどれだけ救われるか。

もし、私が送られるときは、そんな言葉より、いつかの思い出を面白おかしく話してくれたほうが、気持ちよくその場を去れる。

あ、その時は喪服なんてダサい格好で来ないでね。黒い服で来ていいのはバンドマンとバンギャだけってことで。みんな私に見えるように、みんながスキな服装で遊びに来てくれればいいじゃない。

だって、私は死なないんだから。

今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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前回の記事はこちら。

自己紹介的なのはこっち。


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