📚「カラフル」を読んで思い出したこと
カラフルを読んだとき、わたしは学生時代に同じクラスだったあの子を思い出した。
その子は3年間のほとんど、昼休みにお弁当をひとりで食べ、移動教室にひとりで移動していたような女の子だ。「ほとんど」の解釈はわたしの個人的な印象なので、もしかしたらほとんどではないかもしれない。
彼女もはじめはお昼ご飯をいっしょに食べる人がいた。移動教室にいっしょに移動する友達がいた。
だけどいつからか、ひとりぼっちでいるのを見かけることがおおくなった。
その空気にはクラス全員が気づいていたと思うし、無視されるわけではないけれど、仲間だと思える人はいなかっただろうと思う。
わたしの中の正義感か、優しさか、同情か、共感か、何がそうさせたかはわからないけれど、わたしは時々、彼女とお昼ごはんを食べるようになった。
休み時間に共通の趣味の話でいっしょにすごすこともしたし、移動教室にいっしょに移動したりもした。
彼女が当時、孤独だったかどうかはわからないけれど、一緒に何かをしようと誘ったときの嬉しそうな顔と、話をしているときのイキイキした表情を見ていて、ひとりはさびしかっただろうな、と感じた。
だけどわたしは好きでそうしていたわけではなかった。
いっしょにいて楽しかったわけでもない。常に周りの目を気にしていた。
お昼をいっしょに食べはじめた時には、お弁当の味がしないくらいクラスメイトの視線が自分に向いてるのではと思ったし、移動教室では他のクラスの人の視線が気になった。
わたしは、ひとりでいる彼女を見ていることがしんどかったし、ひとりぼっちのクラスメイトがいながら誰も声をかけないことは悪いことだと思っていた。
そんな気持ちで接しているから、きっと表情やしぐさ、態度で彼女を傷つけていたこともあったと思う。
わたしは近づいたにも関わらず、そんな自分が恥ずかしくなったり、嫌になったりして、避けた記憶がある。
それは誰からも声をかけられないことよりも、はるかに彼女を傷つけたかもしれない。
後味の悪い記憶として残っている。
当時思春期のわたしは、他のみんなもそうであるようにいろいろ悩んでいた。
「所属感」とか「自分らしさ」とかいうものをまったく感じられずに苦しかった。
それを彼女に投影して、自分自身を救いたかったのかもしれないし、そんな自分自身を彼女を通して間近で感じるのがつらかったのかもしれない。
彼女といっしょにいると彼女が受けている孤独を自分も受けているような気持ちになって耐えられなかった。
そんなふうにして関わっていたのも、ほんの半年もなかっただろう。わたしが勝手に孤独だと決めつけた彼女の3年間がどんなものだったのか、わたしは知らない。
仲はもちろん深まるわけでもなく、わたしの抱える孤独は解消されるわけもなく、卒業を迎えた。
卒業アルバムの最後のページのメッセージ欄は、いかに自分が学生時代を謳歌したかを反映したページのような気がする。
その当時のわたしを反映するかのように中途半端にメッセージをあつめた。欲しいわけでもいらないわけでもない。
そこに彼女がわたしへのメッセージを書いてくれた。
“You are my sunshine.”
そのメッセージを見たとき自分が恥ずかしくなった。
わたしは確実に彼女の太陽ではなかった。
いっしょにいながらいっしょにいない友達だった。
でもそんなわたしの中途半端さを知ったうえで、そうやって書いてくれたように感じて恥ずかしくなった。
真意はわからないけれど、よかったのか、わるかったのか、わからないままの出来事を、よかったことだと結論づけてくれたような彼女のメッセージを今でも時々思い出す。