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受容性は冷たさにもなり得るが、自立した関係構築には欠かせない要素。



私の特徴のひとつにも、受容性がある。

人を受け入れることが得意で
滅多に怒らないのが特徴だ。


私自身、この特徴に関しては長所と捉えていた。
この受容性無くしてわたしを語れないくらい
構成割合の大半を占めていると言っても過言ではない。


相手を受け入れることは
相手に期待をしていないことなのでは?
優しいようで冷たい、見限っているとも言えるのでは?
と、ある人が私に投げかけた。


これには結構な衝撃を受けた。
自分の中で誇るべき特徴の受容性が
優しいではなく冷酷な一面を持っているかもしれないという疑念が捨てきれず考えてみた。



私の出した結論は
受容性はある種の冷たさだと言える。

ただ、その対象と使い方次第で
自立した関係構築には欠かせない要素だと言える。


相手に期待をしないという意味では冷たさだけど、
自分とは同じ価値観になるはずがないという
ある種の諦めがあるからこそ、 どう擦り合わせるか工夫する。


相手にばかり変わって貰うことを期待するのではなく、どこまでであれば擦り合わせる事が出来るかを考える。

それが一生を共にするパートナーなのか
友人なのか、仕事だけの関係で良い人なのか
対象によって違う。

私の場合は物凄く近しい人でない限り
価値観の擦り合わせはあまりしない。


遠くの人にそこでエネルギーを使うより
近くの人にエネルギーを使いたいからだ。


だからある意味、
顔見知り程度の人に期待をしないという点で言うと、冷たいのだと思う。


ただ、それは近くの人を大切にする為の犠牲で
全員に全力で向き合うような体力は私には無い。


全員に全力で向き合う強烈なエネルギーを持った人をたまに見かける。

本当に凄いし人として尊敬するが、
多分どこかでその分のマイナスはあるはずだ。

それは持続性なのかもしれない
近い人ほど甘えやすいからこそ、身近な人へのエネルギーの注力具合を蔑ろにしてしまっている可能性だって考えられる。


受容性の冷たさは自由を尊重しているからこそ起きる。

あなたの選んだ選択なのであれば
それを尊重します。

そんなスタンスだ。


サルトルの「人間は自由の刑に処せられている」と表現した言葉にニュアンスが近い気がした。


受容性の高い人の冷たさの正体は
自立を促す厳しさだ。


どこまで突き放すのかはそれぞれで
勿論大切な人には受容した上で
擦り合わせをしていけば良い。


本当の意味で自立した良い関係を築くことが出来るのは受容力の高い人ではないだろうか。

何事も一長一短だ。
私の持っている受容性は見方を変えれば冷たさにもなる。
そんな鋭い視点があることも忘れず、
自分の特徴を愛し、活かして生きて行きたい。