『モモ』から読む、豊かさとは何か?
昨日『モモ』の読書会で、豊かさとは何か?という話題になった。
『モモ』は時間をいくら節約しても幸せになれない人々が描かれていて、ざっくり言えばそれは資本主義への批判だろう。
物質的な豊かさがどんなに手に入っても、常にイライラして怒りっぽくなった人々。
そこには笑顔はなく、優しさや思いやりのような人間らしさは失われてしまう。
日本の現状もまさに資本主義的価値観なので、『モモ』の世界は今の私たちを風刺的に描いたディストピアに見える。
一方で、『モモ』を良い作品だと評価する人はとても多く、読書会では常に課題本として人気がある。
ということは、いわゆる本好きの人々は「資本主義的価値観は、行き過ぎると人間らしさや豊かさを損なう」と感じているということだろう。
では、物質的ではない「豊かさ」とはいったい何なのか?
それはお金に還元出来ないものだ。
『モモ』でいうなら、例えば夜空の星々をじっと見つめる時間や、二人だけの秘密の物語、人が会って話すことで広がる想像の世界などのことだろう。
お金にならないけれど、それらはなぜか心を震わせる。
「なぜか」なんて、到底説明出来ない。
でも、それらが全て失われたら、おそらく人間は生きていけない。
実際、なに不自由なく裕福な暮らしをしていても、心を病んで死んでしまう人もいるのだ。
それでも、資本主義は「物」以外もお金に置き換えようとする。
例えば娯楽やサービス。
資本主義的価値観で言えば、それらはストレス解消のための気晴らしとしてお金を払って消費するものだろう。
『モモ』の中でのジジは、物語を語る有名人になり、セレブな生活を手に入れる。
ジジの物語はお金に還元されているから、資本主義的には成功しているように見える。
でも実際には、人々はジジの物語を単に消費してしまい、ほとんど覚えていない。
ジジはどんどん搾取され、心は空っぽになってしまう。
物質的豊かさと引き換えに不幸になってしまったように見えるのだ。
お金に還元出来ない「豊かさ」。
そういうものがあることはわかっているはずなのに、現代日本の私たちはしばしば、それを忘れる。
物質的豊かさばかり追いかけているうちに、今あるものを失う恐怖も大きくなり、常にリスクとベネフィットのことばかり考えるようになる。
そうなると、「本当の豊かさ」を感じとる感受性が鈍ってしまうような気がする。
そのタイミングに灰色の男がスルリと入り込んでくると、自己啓発本や情報商材に手を出してしまうのかもしれない。
もしかすると、そうならないために存在するのがアートや文学、音楽のような「文化的」と言われるものなのかもしれない。
お金に還元しづらい無駄なもの、あるいはコスパが悪いようにみえるこれらのものは、鑑賞することで心が震える感覚を思い出させてくれる。
灰色の男に対抗するには、感受性を鈍らせないことが重要だと思う。
文化的なものは、私たちを「人間としての正気を保つために価値がある」ということもできるのかもしれない。
豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。