身体性、それが問題だ

WEB墓が最近話題らしい。
ネット上に予め自分の墓を作る動きは以前からアメリカであったようだが、ここ数年日本でも類似のサービスを展開するビジネスが出てきている。
永続性や個別性を担保するためにブロックチェーンを使ったNFTを活用するものもあるようだ。

Facebookでも死後にアカウントを「追悼アカウント」にできる設定がある。
(生前に自分の死後の管理者を指名しておく必要がある)
個人的にはWEB墓をわざわざ作らずとも、追悼アカウントで済むような気がする。

実際は、埋葬する墓とWEB墓は共存させるケースが多い。
実際の墓が遠方でなかなか行けない、家族墓に親類縁者以外はお参りしづらいというような場合の代替墓としてWEB墓を推奨しているようだ。

理屈は理解できるのだが、それを広めようとすることにはどうも違和感がある。
追悼アカウントはわかるのだが、わざわざWEB墓を…というのはなぜか心がざわつく。

一つは、身体性の問題だ。
私は、墓は故人に会う代わりに詣でるものだという感覚がある。
墓を掃除したり花を手向けたりという身体性を伴うことで、実際に会うことの代わりになるから意味がある。
遠方の墓も、折に触れて足を運ぶ人がいるのは、そういう理由だと思う。
また、WEB墓だとネットサーフィンと感覚が地続きで、日常との差別化がない。
墓参りは供養の儀式のひとつと考えると、WEB墓への参拝は供養してる感覚を持ちづらい。
供養することで故人への思いが深まったり、死別の悲嘆が癒やされたりする効果が、WEB墓だとほとんど無くなってしまう気もする。
(供養が故人に及ぼす宗教的な影響は、ここでは言及しない)

推進派の意見として、特にブロックチェーンによるNFT化したWEB墓と追悼アカウントとの差別化には理由があるようだ。
追悼アカウントは、結局のところSNS運営会社の匙加減ひとつで無くなる可能性がある。
サーバがダウンしても無くなるし、運営会社がサービス提供を終了したら消滅する。
このリスクをNFTによるWEB墓は回避できるというわけだ。

でも、そもそもWEB墓を詣でるのは誰なのか?
せいぜい直接面識のある孫世代までくらいのような気がする。
しかも、その先例えば100年後、今と同じようなインターネットが存在しているだろうか?
100年後、わざわざ面倒で長いURLを入力してネットを見るようなシステムが残ってるだろうか?
残っていたとしても、現在のビデオテープやオープンリールのように、それを見るための機器をわざわざ探して買わないと難しいようなことになってはいはいだろうか?

とにかく、私はWEB墓というものに強い違和感があることは間違いない。
おそらく、儀式や供養が自分にとって大事だということを否定されたように感じているのだと思う。

選択的夫婦別姓問題と似たような構図かもな、と思う。
「やりたい人はやればいい」という話のはずなのに、「やらないのは時代遅れだ」みたいな流れが一部から起こってしまう。

WEB墓、ブロックチェーン、NFT。
「これからの時代には欠かせないですよ」「知らないと時代遅れですよ」と言われているような気がしてしまうのは、私の被害妄想なのだろうか。

豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。