大きすぎて持ちきれない

昨日は父の命日だった。
亡くなって3年目の今年は法事もない。
姉と私で仏壇をいっぱいのお菓子や果物で彩った。
父が好きだったお菓子を思い出して探したが、すでに販売が終了していた。
時は流れるのだ。

父は自分の欲はほとんどなく、家族の幸せが自分の幸せだと言い切るような人だった。
晩年の数年は介護と、おそらくまだら認知症もあったので、かつての父よりも子供っぽい言動も多かったが、それでも父の要求の根本は家族の役に立ちたいというものだった。

亡くなることで、私にとっての父は「無償の愛」という概念になった。
父に愛された記憶は幸せだけど、もう無償で愛されることはないのかと思うと心底つらくなる。
そんな事はないのかもしれないが、それ程までに父の存在は大きい。

仏壇の前でひとしきり泣く。
暮らしに支障が出るような悲嘆ではない。
それでも、自分が死ぬまでこの喪失を抱えて生きるのはつらいことだなと思う。
私には子どもいないので、父から受け取った贈与としての愛を還すわかりやすい対象がいないことも大きいのかもしれない。

誰かをケアしたいとずっと思っている。
ケアは、それ自体をやりがいと思ってはいけない。
やりがいだと思った途端、それは自分のために行うものになってしまうからだ。
でも、じゃあどうやってモチベーションを保つのか?
ひたすら利他の精神を養うしかないのか?
私はそこまで善人ではないし、博愛精神もない。
だとしたら、それはあまりにもハードな道のりではないか?

そう自問しつつも、それでもケアをしたいと思う気持ちはどこから来るのか、自分でよくわからなかった。
でももしかしたら、私は父からもらった愛を正しく贈与する相手を探しているのかもしれない。
無償の愛は大きすぎて、私ひとりではとても抱えていられないのだ。

豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。