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スナック文學

 金木犀の香りは何処へ行ってしまったのだろう。

 保湿剤を肌にまんべんなく馴染ませている時に、ふと思った。瑞々しい液体を手に取って鼻に近づけてみるけれど、さして匂いはしなかった。金木犀香る、肌に優しい保湿剤。そんな売り文句に唆されて手に取った。使い始めた頃は、あんなに芳醇な香りがしたのに。慣れというのは恐ろしい、つくづくそう感じる。だから——慣れたくない、とも思う。

 ラフな格好に着替えた後、彼のいる部屋に戻る。
「お待たせ」
そう言うと、彼は私に目配せしてまた視線をパソコンの画面に戻した。
「進捗はどう」
そこまで聞くと、流石に彼も返答した。
「まずまず、かな。ようやくしっくり来る言葉を掴んだところ」
頭を掻いた後、少し休むかーと背伸びをする。私はそんな彼の姿を横まで見つつ、化粧台の前に座った。鏡に彼の後ろ姿が映る。草臥れたシャツの張り付いた背中が淋しく見えた。

 *
 小説を書くこと、それが彼の趣味だった。最初彼に打ち明けられた時にはぎょっとした。私にとってはそれが、格式高いというか、高尚な趣味のような気がして、この人と釣り合うだろうか、と内心不安だった。
「堅苦しいものじゃないよ。娯楽さ、娯楽」
彼はそう言ってカラカラと笑ったけれど、彼の目を見ると、彼が娯楽と称したものに、真剣に向き合っているのだということは分かった。どんな小説を書いてるんですか、思い切って聞いてみた。

「スナック」
少しの間考えた後、彼は告げた。
「スナックみたいな小説を書きたいんだ」
スナックみたいな小説——私には見当もつかなかった。何ですか、それ——そう聞くと、彼は親切に私の方に向き直って説明してくれた。
「サクッと摂取できるくらい軽いものなのに、胃の中に淀みを残す、そんな小説」
彼の言いたいことは何となく分かった。短いのに核心を突いていて印象的な文学、そういうものを彼は書きたいのだ。

「スナック文學」
気づけば、口を衝いていた。
「いいね、そのネーミング」
彼は無邪気な笑顔を見せた。その微笑みを、たまらなく愛おしく感じた。

 以来彼とは頻繁に会うようになった。仕事終わりに私の家に寄るなんてこともしばしば。夜遅くまで一緒にいることも増えた。私がシャワーを浴びて出てくると、彼が作業用のデスクでキーボードを鳴らしている。そんな日々が続いた。彼は一度自分の世界に入ってしまえば、なかなかこっちには戻ってこない。ぶつぶつ念仏のようなものを唱え始めたかと思えば、うーんと唸って頭を抱える。大体そうやっているときには返事が来ない。一緒にお話しているときなんかも、降りてきたものがあると会話の途中でもお構いなしにメモに走り書きを始める。本当に遊びと割り切っているのか、それとも諦められない何かがあるのか——聞くのはよした。まだ私ごときが触れていいことじゃない、そんな気がしたから。でも、そんな熱心な姿を隣で見ているだけで微笑ましく思った。幸せだと思ってしまった自分がいた。

 彼に時折薄暗い靄がかかってしまうことに、私は気づいていた。彼はふとした瞬間に破滅願望を口にする。華金に晩酌をしている最中にだって、平気で気分の落ち込むことを言う。

「僕の人生もね、誰かにとっては小説だと思うんだ。出来の悪い短篇小説」

マスタードの効いたスナックをつまみながら安いお酒を飲んでいた時だった。火照った顔を硝子窓に向けたまま、彼は続ける。

「僕の命も、誰かに軽々しく消費されてしまいたい」

胃もたれを起こしてやるんだ、スナックみたいに——。そう言ってから、菓子の欠片をつまんで口に放り込む。小気味よい音が静寂に沈む。硝子に映った彼の表情は、闇に解けてうまく見えなかった。私も次いで残り僅かなツマミを口に含む。すぐには咀嚼できなかった。唾液に絡まって、柔らかくなって、噛んだ時にはもう遅かった。マスタードの味が、よく分からなかった。

——その「誰か」が私だったら、寿命まで貴方を味わい尽くすのに。でも、その「誰か」に、私はなれない。

「だめだよ、そんなの」
それだけしか言えなかった。私なんかに彼の意思を否定できるほどの権利はないと思った。でも、だめだ。嫌だ。都合のいい言葉が口を衝いて出る。そんな自分が、嫌いだ。

 誰かの特別になりたい——そう願い続けていたくせに私は特別になることを恐れていた。この「特別」が、どこかで「当たり前」に変わってゆくんじゃないか。だから私は、貴方の特別になるのが怖い。貴方の匂いを探さないといけない日が来ることが、私の匂いが忘れられてしまう日が来ることが、どうしようもなく、怖いんだ——。

 手櫛に髪の毛が絡まって、はっと気づく。

 あぁ、そういえば——私、金木犀の香りを、探していたんだった。

 *
 髪を乾かし終えてドライヤーを置くと、彼も丁度区切りがついたみたいだった。私の方に近づいてきた。何、と聞いてみるけど答えは分かりきっている。
「何でもないよ」
耳元まで近づいた彼の顔を掌で制す。
「シャワー浴びてから」
「ツレないなー」
彼は唇を尖らせるが、それから、あっと思いついたように言った。
「さっきまで書いてた小説、終わったよ」
「おつかれさまー。よかったじゃん」
「うん。自分でもまあまあ自信ある部類に入る、スナック文學」
はにかんだ顔が愛らしい。スナック文學という言葉はやたら彼が気に入っていて、よく使っている。
「どこかに出すもの?」
と聞いてみると、彼は何だか難しそうな顔をして、まだ考え中、とだけ言った。彼の表情は心做しか晴れ晴れしているように見えた。
「ささっと浴びてくるわ」
彼はそう言って鼻歌交じりで風呂場に入っていった。よほどうまくいったらしい。彼曰くここ最近不発が続いていたらしいので、ここまで上機嫌なことにも納得がいく。彼が私にその作品を見せてくれたことは、まだ一度もない。こっそり覗こうなどとは考えない。彼に見てもいいよと言われるまで、見ないと決めている。まだ彼と距離があると感じるのは、そのためなのかもしれない。私は彼がどんなことをしているのかよく知らないし、彼も積極的に私に作業の内容を明かそうとはしない。少しだけ、遠い関係。でも、それくらいが案外丁度いいのかもしれない、最近そう思う。

 浴室へと忍び足で向かった。扉には彼のシルエットが映っている。ぼっと浮かび上がった彼の背中はどういうわけか、やけに大きく見えた。洗濯機の上に投げ置かれた彼の着衣を手に取って、顔を埋めてみた。ああ——まだ、この人の匂いを感じる。ちょっと汗臭い、この感じ。金木犀の香りは、確かにここにあった。

 浴室から洩れ出るぼやけた光を浴びながら、この先のことに思いを馳せた。彼との、未来。いつか訪れるかもしれない冷たい未来。そんなものに怯えていたって、結局前に進めないだけだ。分かってる。それでも、まだ、少しだけ遠い関係でいたい。貴方の総てを知ってしまおうだなんて、そんな傲慢なことは思わないでいたい。いつまでもこの香りを愛しいと思っていたいから。

 この気持ちをスナックみたいに咀嚼できたら、どんなに楽だろう。

「書いてよ」

言葉が零れ落ちた。ひとつ隔てた先の君には、届かないけど。

書いてよ、私のためだけに。

胸にストンと落ちて、私の大切なものになって残り続けてくれる、そんな小説。

書いてよ、私のための、スナック文學を。


【了】



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