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石川県珠洲市に行ってきた

 2024年元旦に起きた能登半島地震で、被災した地域の一つ・珠洲市に行ってきた。

 ラトビアから一時帰国したら、必ず行こうと思っていた。

 現地へ赴いたところで、何ができるかは分からない。地震が起きたまさにその時、ラトビアは6時間差で、曇った朝だった。

 地震発生直後も、現在も、ニュースで切り取られた事実の周りで、何が起きているのか自分の目で見ておきたかった。

 好奇の意味ではなく、誰かの言葉で語りたくなかっただけだ。

 天災は、いつ、どこで起きるかも分からないし、明日は我が身だから。

 地震が起きるたび、他人事に思えないのは、富士山と海に挟まれた地で生まれ育ったからだろうか。

 特に何のリテラシーもスキルもなく、丸腰・単身で乗り込んだところで現地の迷惑になりかねないと感じ、受入先を探して、縁があり珠洲市の「あみだ湯」さんにお世話になった。

 「あみだ湯」さんも被災したエリアに建つ。地下水を利用し、薪でボイラを沸かし、地域の人たちの大切な休息の場になっている。

 仮設トイレが設置され、近隣で倒壊した家屋から出た廃材を燃料に、ボイラを稼働させていた。最近、上水が再開したらしい。

 現地での作業は、主に「あみだ湯」さんの通常業務(お風呂掃除と番台さん)、そして銭湯周辺に集められた段ボールや倉庫の掃除などだった。

 「あみだ湯」の営業時間になると、顔馴染みと思われる人たちを中心にお客さんが次々にやってくる。

 数分でササッと身体を洗って帰っていくような人もいれば、2時間近くお風呂でおしゃべりしたり、湯船を楽しんだりして帰る人もいた。

 印象的だったのは地元の女性と思われる二人組の会話。

 番台さんと挨拶を交わした後「あみだ湯での時間が、唯一の癒しの時間」「嫌なことぜーんぶ、忘れられるもん」と話していた。

 番台ではお客さん全員に名前と住所を書いてもらっていたが、家の上下水道が使えないためお風呂に通っている女性は「なんで毎回、もう壊れて帰れない家の住所を書かなきゃいけないんだろうね」と笑っていた。なんて返せばいいか、分からなかった。

 掃除などの作業だけでなく、周辺地域も案内していただいた。

 ちょうど珠洲市に滞在していた週末は地元の「おすずみ祭り」が開催されるため、その準備に勤しむ住民の方々と出会し、少しお話することもできた。

神社の境内が崩れて屋根だけ残っているところもあった。

 中でも、震災の被害が最も深刻と言われる宝立町は、文字通り時が止まっていた。 

このまままっすぐ行くと海に出られる。その立地が津波の被害をもたらした
道路に傾れ込んだ瓦礫を、まず両側に移動させて道路を開通させるのが最初の作業だが、それすら着手されるのにかなり時間がかかった。そのため、両脇にあるのは倒壊した家屋に加えて道路から寄せ集められた瓦礫
もともと住んでいた人たちのほとんどは避難し、戻ってきていない

 地震が起きたのは、お正月。家族団欒を楽しんでいた人も多いに違いない。

 破けた網戸や、つぶれた子どものおもちゃ、粉々の瓦の山の上を、カラスが何羽も飛んでいる。

 瓦礫から生える雑草が時間の経過を物語っていた。

あみだ湯に全巻あり、一気読みした『スキップとローファー』。珠洲市が舞台のまんが。

 珠洲市には、ボランティア活動をするつもりで向かった。しかし、滞在するのは数日で、できることはわずかだ。

 できることがわずかなのは、分かってはいた。わたしには土木建設の知識もなければ重機を操ることもできないし、水道を開通させる能力もない。

 けれど、ここで圧倒されて投げ出すわけにはいかない。受け取ったものを、何かしらの形で返さなければ。

 あの静かな街中を歩き、一方で祭りの準備に勤しむ人たちの様子を見たら、自分にできることは、今見ていることをなるべく多くの人に伝えることくらいだと思った。

地域の大切な「いろは書店」。店舗が全壊した
違う場所で営業を再開していた「いろは書店」
建物には状態に合わせて張り紙が貼られていた


 また、気候危機と災害、生活様式の変容の関連性についても、思いを馳せないわけにはいかなかった。

 わたしは普段、ペットボトルを一切買わない。大袈裟ではなく、自動販売機も使わないし、外出する時は水筒を持ち歩く。

 けれど被災したら、そんなこと、言ってられない。

 2リットルのペットボトルの心強さは、一度でも断水を経験したことがある人なら分かるはずだ。

 また、あみだ湯のスタッフの方が食事を提供してくださった際、自分のお皿にサランラップを敷いてご飯を取り分けたり、使い捨ての紙皿を使ったりしていたのが印象的だった。

 「ごみを少なくしたい」「なるべく脱プラしたい」という個人的な思いは、あらゆる生活インフラが正常なときしか叶わないし、そのメッセージの緊急性は一気に薄まる。

 「気候危機対策を」と訴えられるのもまた、ある種守られた領域にいる特権ゆえなのだとしたら、やはり政治家や企業人が、今すぐ、具体的なアクションを起こさないことには大きな変化は望めない。

 さらに、自分が被災したり、排泄もままならない状況に追い込まれたりしたら、世界の紛争や不平等に疑問を感じる余裕はない。本当に、それどころではない。

 理不尽なことが次々と起こるのに、自然は待ったなしで暑さや豪雨で追い打ちをかけてくる。

 地球の温度はどんどん上がり、生活が脅かされ、市井の声は反映されているのかされていないのか曖昧なままオリンピックのような派手なイベントの裏で、蓄積されたストレスと悲しみは忘れられていく。

 日本に帰ってきてから、毎日、36度前後の酷暑が報じられ、局所的なゲリラ豪雨で洪水や浸水の危険が報道されている。

 石川県での震災に関する報道は、一度も見ていない。

 東北で異常な豪雨により、生活がままならない人もいる。より身近で緊急な事態が取り上げられるのは、然るべきだと思う。

 けれど、被害や一人ひとりが抱えるしんどさに優劣はない。

 石川県の人々の今に、寄り添うメディアや研究者もいる。彼らの活動に、わたしもアンテナを張っていたいし、数少ない貢献できることの一つだ。

 「一人でできることなんて限られている」と割り切ることは、はがゆさもあるが、思考を放棄して何も行動しないよりは、ずっと誠実だと思う。 

 「何もできないから、やらないでおこう」とする謙虚さが美学だとしても、泥臭くて、多少ウザがられていいから「なぜ」「どうして」を止めたくない。

 だって、被災するのは次、わたしかもしれない。わたしの友達や、家族かもしれない。日本で暮らすということは、そういう心構えと連帯を欠かさないことだと、わたしは思う。

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