エピラ(10)文字との出会い

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。行商の途中、立ち寄った酒場で左足を負傷したニカの父・シマテは娘のニカに手をあげ、気が動転して近所の小川で溺れているところを謎の男に助けられる。男はエピラの医者だと名乗り、シマテの足が病を引き起こすと忠告した書置きを残し、家を去る。

登場人物

ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
男:第23集落に住む、エピラと名乗る自称医者
シーラ: 図書館司書

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。

 その日の晩、ニカは眠れなかった。

 モカレは、シマテを担いで寝室に入ったまま、男が書置きを残して帰った後も、部屋から出てこなかった。

 モアレはぶつぶつと口の中でありもしない妄想を呪いのようにつぶやきながら、家の周りの邪気を振り払うように、空中で両手を何度も払っていた。

 ニカは書置きを握りしめ、モカレに、男からの忠告を伝えようか迷った。が、寝室の扉を開けるとシマテをベッドに乗せ、シマテの腕のところで突っ伏し、眠っているモカレを見つけると、2ヶ月の行商の疲れをやっと推し測ることができ、起こす気にはなれなかった。

 書き置きを渡したところで、モカレはその半分も理解できないだろう。家族で文字の読み書きができるのは、ニカだけだった。

 第23集落には、南の国随一の図書館がある。畑仕事がない日は、ニカはその図書館に入り浸っていた。国ができる1000年以上前から立っているというガジュマルの樹の根を生かした構造で、葉が屋根になっている。

 こびとになったように感じる図書館は、一人、小さな集落を飛び出し、知らない世界を覗き見するのに最高のロケーションだった。

 本は、ガジュマルの気根の、隙間という隙間にぎゅうぎゅうに詰まっていた。一冊取り出すと他の本もつられて雪崩のように落ちて来るのが厄介だったが、落ちてきた本からまったく興味がなかったジャンルを見つけることもできた。とはいえ、高い位置にある本を取り出すときに同じような雪崩が発生すると下にいる人が危ないことから、最近は根の隙間ではなく木で作られた本棚が設置され、整理されつつあった。乱雑に本が突っ込んであるのも、ニカは嫌いではなかったのだが。

 ニカが初めて図書館に行ったのは、モカレの豆売りに着いて行った時のことだ。集落の外に行くことは許されていなかったけれど、集落内の行商には、幼い頃から親の後をついて回った。ニカがいると、住人たちがあやしにやって来て、豆の売れ行きが良くなるから、モカレもシマテもニカが着いて来るのを許していた。

 図書館には、シーラという司書がいた。司書といっても、突っ込まれきれなかった本が散らかっているのを片付けたり、雨が降ったらガジュマルの葉の上にさらに大きいバナナの葉で作ったカバーをかけたり(もちろん一人では無理だから、図書館の近所に住む人々が手伝った)、あとはずっと本を読んでいるだけだった。少なくとも、ニカがシーラを見かけるときは、たいてい華奢な指に似合わない分厚い本を挟んで、紅茶を飲んでいた。

 シーラと初めて出会った日、図書館の前の広場でモカレが豆を売っている間、扉が半分開いているのを見つけたニカは、カウンターで頬杖をついて赤い背表紙の本を読んでいるシーラを見つけた。黒い髪を三つ編みにして左肩の上から胸下まで垂らしている。鼻の上には星屑のようなそばかすが舞っていて、唇は小筆で描いたように薄い。

 ニカはまだ10歳だったが、シーラと目が合うと、夢見心地な薄茶色の瞳に捕まって、息を呑んだきり動けなかった。

 「こわかったよ」

 ニカは、初めてシーラを見たときのことを思い出すたび、そう言う。

 「本の中にすっかり入り込んでいたから、わたしの方を見ていたけど、わたしのことは見えていなかったんじゃないかな」

 見慣れぬ女の子が一人、ポツンと立っているのを見つけても、シーラは何も言わず、しばらく固まっていたが、ふと自我を現実に引き戻すように頭を左右に軽く振ると

 「何かお探し?」と言った。シーラの高く淀みのない声は、ガジュマルの葉の天井に響いて音の雨粒のようにかすかに反響した。

 特に何かを探しているわけではなかったが、半開きの扉の向こうで賑やかに豆を売るモカレの声が、その反響の隙間に聞こえてシーラは本を閉じた。

 「ああ、あなた豆売りのところの子ね?」

 ニカは何も言わずに、うなずいた。

 「お手伝いに来たの?」

 「……。」

 「本は、好き?」

 シーラはカウンターから立つと、ニカが今まで見たことがないほど細長い胴をしていた。姫芭蕉のように背が高く、まっすぐだ、とニカは思った。

 シーラの問いかけに「ほん?」と呟き返すと、シーラは後ろを向いて、一冊の大きな絵本を取り出した。

 それが、ニカが一番最初に読んだ本、「ポフネ」の物語だ。

 「ポフネ」は、白い髪を生やしてエメラルドグリーンの瞳を持つ民族の名前だ。「ポフネ」は、森と生きる。森の中で生まれ、森の中で育ち、一度も森の外へ出ることはない。木を切り、動物を獲る。野菜や穀物を育てることはほとんどない。見知らぬポフネの暮らしが、12歳のニカの両手では支えきれないほど大きな紙いっぱいにパステル画の絵と共に、描かれていた。

 シーラの声は、歌うようにも聞こえた。ガジュマルの木の中でつむがれる「ポフネ」の物語は、ニカには初めてこぼれるほどの流れ星を見た日の夜を思い出させた。

 その日から、何度もシーラに読み聞かせるようねだった。シーラの調べを聞き続けるうち、ニカは、本や文字に興味を抱くようになった。

(つづく)

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