見出し画像

エピラ(5)湖のような瞳

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。南の国に暮らすニカの母・モカレと父・シマテは、豆の行商から疲労困憊で帰宅した。酒場でエピラと口論になり、片足を負傷したシマテはエピラを毛嫌いしている。ニカは父・シマテが苦手だったが……。

登場人物

ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。

 荷車を引いて帰宅したとき、馬車に引きちぎられたシマテの左足は、紫蘇をこすり付けたような赤黒い色い布が巻き付けてあるだけで、ぐじゅぐじゅに膿んでいた。

 豆作りで鍛えられた丸太のような両腕は、なんとかシマテの体を支えながら、壁づたいに一歩ずつ歩みを進めている。

 足を引きずりながらたどり着いた、バンブーハウスの裏の水場で、シマテは、ゆっくり布を取り外した。膿んだ傷口を修復しようと、大急ぎで細胞が新陳代謝している。その一部が、布に張り付いてむけた。

 水に浸した綿の布で、傷口を洗う。ろうそくの明かりで広がる夕闇に、足が溶けてしまったように見える。

 自分のものとは思えない身体を投げ出して、空を仰ぐ。まだ星は見えない。

 暗いのは落ち着く。明るいと、エピラに突き飛ばされた肩の感触や、目の前を風のように通り過ぎた馬の足が、スローモーションでよみがえって、眠れなくなるから。

 怪我はしない。風邪もひかない。畑仕事も、一日も休んだことはない。

 体力しか、ない。でも、体力だけが、おれのアイデンティティだった。

 なぜ、こんなことに。

 絶望なら、もう両手に、ありすぎるほどだ。

 今季のクル豆は艶もいいし、粒も大きいのがたくさん採れた。だから、高く売れるはずだった。

 今度の豆の売上が集まれば、家を建て直せる。

 モアレの足も治せる。

 ニカを、学校へ行かせられる。

 なのに、たった、2ヶ月で。

 こんなはずじゃなかったという言葉に支配された頭の中は、ずっとうるさい。このまま外で眠ってしまいたい。

 けれど、活火山のタビラ山は、昼夜細かい灰を街中に散らしている。外にいるとまつ毛の先に灰が並ぶ。家の中に戻らなければ。

 ワセリンを塗り、乾いたもう一枚の綿の布をゆっくりと巻きつけた。このワセリンは、北国からの輸入品だが、シマテは、その事実を知らない。

 集落の灯りが星のように、ちらちらと点滅するのを眺めているふりをしながら、ニカは壁づたいに歩きながら水場から戻ってくる父親の姿をみとめた。

 片足に体重を乗せているからか、足音の一歩いっぽが重く、バンブーハウスの床が振動する。

 シマテは、ニカが苦手だった。

 否、苦手という表現は、少しちがう。

 ときどき、どうしようもなくこわくなるのだ。

 自分が気づかないふりをしていることを指摘したり、蓋をしようとした臭いものを、白日の元に晒したり。

 その無邪気さに、シマテは、自分の不安を炙り出されるような居心地の悪さを感じて、いつも目をそらした。

 自分が水場から戻ってきたことにニカが気づいたと、シマテは勘づいた。何か聞きたそうにしているニカの視線を、首から肩のあたりでかわす。

 あたかも、負傷した足を庇って歩くことに夢中で、ニカがリビングにいることになんか、気づいていないかのように。

 本当は、事故の応急処置を受けた第19集落から、自宅のある第23集落に歩いて戻ってくる間に、身体のかばい方を学んだから、勝手を知っている家の中を移動するのは造作もないのだけれど。

 「父さん」

 ちょうどニカの横を通りすぎようという瞬間に、ニカの声が、視線を交わし続けたシマテの肩を、つかんだ。

 呼びかけたまま、ニカは何も言わない。

 シマテは下を向いたまま、黙ってニカの次の言葉を待った。

 「足、大丈夫?」

 ニカの声はこわばっていた。心から足のことを案じていることは分かったけれど、心配のセリフは、本当に言いたいことへの弾みをつけるための前置きだということを、シマテはすぐに察した。

 「平気だ」

 シマテは、ニカの次の言葉が出てくるのを押さえ込むように、できるだけ強い語気で言い捨て、壁をつたって自分の部屋に向かって歩き出した。

 「父さん」

 ニカの呼びかけは、シマテの牽制に気づいていないのか、立ち向かおうとしているのか、熱がこもっていた。

 「その怪我は、本当に、エピラのせいなの?」

 シマテは、顔を上げ、ニカを見た。

 いったい、何年ぶりに、この瞳をしっかり正面から見ただろう。

 エメラルド色の、湖のような瞳。見栄も言い訳も、一気に蒸発させるような光をたたえた瞳。

 そうだ、この目だ。

 シマテは、ニカの胸ぐらをつかんだ。

(つづく)

余談

ここから先は

677字

¥ 100

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。