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さようなら20代、はじめまして30代、を、するまでの日記

9月1日 0:27

 屋久島に行ったとき、その日起きたこと、感じたことを日記に残す楽しさを覚えた。どんなにささやかであっても、かまわない。

 だから、9月に入ったばかりのこの深夜、また日記でもつけようか、と思い立った。

 20代最後の28日間。

 身の丈を知るとはこういことか、とやっと気づいたのが28歳の終わりの頃だっただろうか。頭では理解していたことも、いい意味ですとん、と自分のプライドを手放せる瞬間はあるのだ、都市伝説かと思っていた。

 大人になったら丸くなる、という表現。身の丈を知るとは、丸くなること……なのかもしれない。

 でもわたしは、戦い方を変えることだ、と今は思っている。戦うの? ほどほどにね、身体もそんな無理は効かなくなってくるよ。

 そう、身体。これも最近、変化を感じる。

 女性の身体というのは、観察しがいがあるというか、細胞って本当に毎日生まれ変わっているんだなーと実感することがしばしば。

 鹿児島に引っ越して、環境の変化のせいなのか、年齢による体質の変化かは分からないけれど、なんとなく基礎体温が上がった。そして、生理前のだるさが今まで感じたことがない倦怠感を誘引する。

 今までPMSとか生理痛とかほぼ無縁だったけど、そうじゃなくなったのか、もともと存在していた症状をやっと自覚したのか、分からない。が、とにかく変化している。

 丸くなったほうが、今までできなかったことができるようになったり、関われなかったことに関われたりする。

 余計な雑念が祓われて、なんだか身軽だ。実際子どもも家族もいないから、そういう意味でも身軽だ。

 守るものは何もない、と言ったらウソかな。でも、なんでもできる。何者にもなれるし、ならなくてもいい。

 20代はとにかく自我や自意識と葛藤・格闘してばかりだった。やじるしが、常に自分へ、自分へ、向いていた。

 それはもう飽きたな。だから30代は、外へ、外へ、向いて放っていきたいな。

 そして、創る10年に、する。

9月1日 21:58

 桜島がきれいに見えた。山肌の凹凸は、ほれぼれするのに、人の肌の凹凸は忌み嫌われる。

 なんでさ。でこぼこだって、いいじゃん。

 なんでもかんでもなめらかつるつるすべすべなんて、つまんないじゃん。肌触りが、でこぼこのほうが「さわってるなあ」って感じがして、いいことも、あるじゃん。

 心地よければなんでもいい。

 手伝っていた仕事が、ひと段落する。わたしなりにできることは精一杯やりたいけれど、時間も体力も有限だ。かかわれることと、かかわれないことがある。

 やりたくてもできない、気づいているのに手をつけられない状態は、もどかしい上に、自分の価値を下げる。

 できないこととできることの線引きを、しっかりつくるのも誠実さだ。たぶん。

 なんだかとても疲れたので、今日はもう寝る。明日は資源ごみの日。5:30起き。

9月3日 7:06

 昨日は、新型コロナウイルス対策の、ワクチン摂取、2回目だった。

 腕の、針を刺したあたりが未だにズキッと、する。ワクチンを摂取した方の腕だけ何かの装置をつけているか、しびれ粉みたいなものを浴びたようにピリピリして、重い。

 動かすと痛いから、服を脱いだり着たりするのが大変。

 起きてすぐ測ったら、37.5度。そのあと30分くらいして測ったら38度と急上昇。確かに頭がぼーっとするし、体内がジリジリ熱い。でも皮膚の温度はそんなに上がっていない気がするから不思議。誰かに身体を乗っ取られているようだ。

 コロナの感染を抑制する薬も、未だ開発されておらず、変異株が次々に出てくる。わたしたち人間の待った無し。なにかを突きつけられているかのようだ。

 ワクチン、専門家の知恵を絞って絞ってその搾りかすを編んで藁を掴む思いで開発されたものだったとして、こんな熱が上がるのは、やっぱり不自然。

 身体が「異物が入ってきた!」と戦っているのでは?と錯覚してしまう(実際何かに抵抗しているから熱が出るのだと思う)。

 わたしたちがいろんなものを不自然に捻じ曲げてきて、その報復か?と思わずにはいられない。熱が出てぼーっとしているから、思考もどこかぼんやりしている気がする。目の奥が熱い。

 夜。

 頭がガンガンしてきた。気まぐれに『モテキ』を見たからだろうか。麻生久美子に感情移入しかけたけど、あんな一途になったのはもう随分前だなあ、などと思う。恋、よいね。たまには、ね。

 目の奥がやはり熱い。1日のうちに何度も7度代と8度代を行ったり来たりする。不安定。ワクチンを打って、ワクチンパスポートを手に入れたら、少しは自由に動けるようになるかしら。早く海外に行きたい。日本もあちこち行きたい。他の物事は、今のままでいい(マスクやアルコール消毒は当たり前でいい)から、せめて「思い立ったが吉日」で移動が叶う世の中に戻ってほしい。

9月4日 22:51

 今日は2本、古着のズボンの裾上げをお願いしに行った。歩いている最中、じんわり汗が出てきた。

 体質が変わったな、と感じるが、これは環境のせいだろうか。鹿児島の高温多湿な環境が、合っていないのか。はたまたバイオリズムによるものか、年齢による変化のせいか。

 答えは分からないが、とにかくちょっとしたことでも汗をかく。特に、人と話をしているとき。緊張しているわけでも、ドキドキしているわけでもないのに。

 午後、行きたかったお店が混雑していて駐車場に入れず断念。早めに家に帰って『晴天の迷いクジラ』という小説を読む。

 まあまあ分厚いが、夜には読み終わった。女子高生と、若いデザイナー、そのデザイナーを雇っていた社長という、3人の死のうとしていた人たちの物語。

 死にたい、という気持ちは、簡単に消えない。とちうか、もしかしたら誰の心にもうっすらと、あるものかもしれないと思う。でも、ふだんそれは他の、うれしいとか楽しいとか、イライラするとか悲しいという気持ちのコントラストで霞んでいるだけで、ふとした拍子に、シミみたいに濃く浮き出てくるものなのかもしれない。

 もはや、うつ、とか、死にたい、とか、感じるのはめずらしくない。いや、前より症状として認められるようになってきたからこそ自覚する人も増えてきたのかもしれない。

 鹿児島が舞台の小説。明確に地域の名前が出てくるわけではないが、縁のある地域の物語は、読んでいると入り込みやすい。東京が、舞台になりやすいのは、多くの人の人生が交わってきた場所だからだろう。

9月7日 22:16

 すっかり、忘れてしまっていた。日記。

 習慣化したいことはGoogleカレンダー全部入れてリマインドが飛ぶようにしているが、日記を書く予定は、まだ入れていなかった。

 習慣といえば。

 大崎町に引っ越してきてしばらくずっと、自分なりのルーティーンが崩れてしまっていた。

 コロナ禍にはじめた筋トレは、週4回は必ずしていたし、オンラインの英語の授業も週3回から4回は必ず受けていた。

 習慣になると、やらない時の方が気持ち悪く感じるようになる。そこまで自分のモノにしても、一度そのルーティンがくずれてしまうと、立て直すのはなかなか難しい。

 最近やっと、筋トレと英語をやる余裕が出てきた。

 夜は、まだ疲れてパッタリ寝てしまいがちだから、英語は朝にやることにした。筋トレは、今まで何度も繰り返し続けてきたメニューではなくて、寝転がりながらでもできる筋トレだったり、音楽が好きなプログラムだったり、とにかく自分に課すルールは「つづける」ことだけただ。

 やらないと気持ち悪い、と感じるレベルまで、まずは続けることが目標。

 あと、朝は本を少しでも読む時間を作るようになった。

 屋久島に行ってから、星野道夫さんのエッセイの続きを読んでいるのだが、どれを読んでも泣きそうになってしまう。

 星野さんの言葉の運び方と、アラスカのキンとしているであろう静けさ、ナメていると死ぬ寒さのなかで野生動物と向き合いつづける緊張感、こわれて変容するアラスカの自然に戸惑う人々の言葉……ぜんぶ、ぴん、と張り詰めた糸の様で、でもさわるとコットンのようにやわらいようなエッセイなのだ。

 同時に、「ああ、わたしはきっと自然に近い環境が向いている」と痛感する。

 そういえば「森の中に一軒家を作って、そこで書道教室をやりたい」と言っていた時期もあった。

 書道教室への情熱は、今はそこまで無いけれど、森の中で暮らしたいのは変わっていない。自然の営みや変化を、きちんとキャッチできる環境にいたい。生かされている、人間の無力さを噛み締めながら、無力ゆえの解放感のなかで、生きていきたい。

9月8日 22:03

 ねむい。今日はとてつもなく眠い。すぐにでも寝たいが日記のことを思い出し、暗闇の中でスマホをいじる。これが、一番目に良くないんだけどな。

 そういえば昔、台湾に行ったとき、占い師に占ってもらったことがある。

 あなたは40歳から笑えるほど稼げる、と言われた。目と腰に注意しろ、結婚は遅い、とも。あ、結婚するんだ、と思った。当時、確か27歳くらいだったと思う。その時点で独身だし、パートナーもいなかったから、なんとなく自然なことを言われた様な気もした。

 そして、ここ1、2ヶ月、寝ている最中に腰に激痛が走ることがあった。もともと反り腰ぎみで、筋トレの最中反り腰を治すストレッチをやっていたが、ルーティンが崩れてストレッチもやらなくなってしまっていた。

 だからなのか、ベッドが悪いのか、はたまた別の要因なのかわからないが、台湾の占い師の言葉がよぎった。ストレッチを再開し、枕を変えたら、かなり緩和された。

 占いは好きだ。基本的に、信じるかどうかというより、元気をもらうために占いを読んだり見たりする。

 客観的な立場から言われると「そうだよな」と背中を押されることもある。だから結果的に、当たっている、のではなく、当たる様に自分から自然と行動しているのだと、個人的には思っている。

 だから、当たって欲しい占いの予言があったら、自分の現状と照らし合わせて、思うままに行動してみる。とはいえ、占いの内容は、見聞きしたその瞬間のテンションが上がるだけで、ほとんど忘れてしまうのだけれど。麻薬みたいなものかしら。

 夜のスマホも麻薬みたいだ。一度開いたらずっと触ってしまう。目の健康に注意と言われた占い師の言葉を、未だに覚えているのはどこか図星だったからなのかもしれない。もう消灯します。おやすみなさい。

9月9日 21:19

 バッタのような風体をした、名前がわからない緑色の虫が、いつのまにか天井に張り付いていた。

 羽根さえなければ、30秒でベランダへ誘導したのだが、なんと羽根があった。飛ぶのは、やっかいだなあ。

 虫は、好きではないが嫌いでもない。この緑のバッタもどきも、いたところで毒を持っていたり攻撃してきたりするわけではない。部屋の片隅に張り付いていたとて、命が脅かされるわけでもない。

 けれど、飛ぶとなると警戒度が上昇する。

 何度か窓の外へ払い出そうとしたけれど、まったくうまくいかない。こちらの意図を見抜いて反抗する様に、部屋の中心部で飛び回ったりする。さっきのほうが窓の近くにいたじゃない!!!なんでわざわざ中に移動してくるのさ、と突っ込みながら、結局追い出すのは諦めた。

 まあまあな巨大だが(小指ほどの体長がある)どうやって室内に入ってきたのだろう。虫はいつもそうだ。「なぜそんなところに」という場所にいる。

 夜、シーリングライトは早々に消して蝋燭の灯だけで一晩過ごすことが、よくある。

 虫は明るいところに寄っていくだろうと思い、部屋の電気を消して蝋燭を5つほど点けたら、すぐにその近くに飛んでいった。

 まあ、いっか、と思った。死ぬわけじゃないし。

 ろうそくもいつか消えるし、この虫もあかりが消えたらどこかまた明るいところへ移動するだろう。網戸は閉まっているから、どうやって外に出るのか分からないけれど。

 ここ数日は、小説やHowto本や評論やエッセイを、雑多に同時進行に読んでいる。本を読む時間の至福感と言ったら。本を読んでいる自分が好きなのかもしれない。それでもいい。自分を蔑み続けるより、百億倍マシだ。

 小説を読みながら、恋のない人生も素晴らしい。恋のある人生も素晴らしい、と思う。そして、恋のない人生もだいすきだけど、ちょっと飽きたなーとも、思う。でもなかなかね、コロミがね、いろんなアクションを遠ざける。とはいえ、無関係に活動する人もいるのだろうけれど。わたしはそこまで、無邪気になれない。

 明日朝起きたら、あのバッタもどきはどこにいるだろう。どこでもいいけど、わたしの視界の届かないところにいてほしい。

9月10日 21:00

 なぜ泣いているのか、分かりたくないような、分かっているけどあえて言葉にしたくないような、でもなにもかも吐き出してしまいたくなる、あいまいなきもち。

 けれど実際、そんなにあいまいじゃない。

 恋が苦手だ、と母に言う。「そんなことない」と、母は言う。

 でも、いろいろな場面において、わたしは誰かを好きだという気持ちを、押し殺してしまうことに慣れてしまって、しかもそれを10代に繰り返してきたから、今になって、どうやったら誰かを好きになれるのか、よく分からなくなってしまった。

 20年近い付き合いの友達と、母とのLINEを、交互にする。

 ずっと一人でいることより、やりたかったのにできなくなることのほうがこわい。

 子どもを産む、そだてる。植物やペットとはちがう神経を使う。文字通り、身体一つで、たちむかう。生半可な気持ちでできるとは思わない。

 そして着実に、身体のリミットは近づいていて、子どもを産まないと決め切れるほど、すべてをやり尽くしたわけでもないし、潔さもない。

 自分がどうしたいのか、言葉にすると、いっきに現実が鬼の顔をして二択を迫る。

 「子ども、産むの!? 産まないの?!」。

 普段考えないようにしているのか、考えても仕方ないと諦めていることなのか、一度言葉にしてしまうと、無かったことにはできない。

 たとえば、選択的シングルマザーになるとして、いろんなサポートやケアは、やっぱりまだ、男女一人ずつの親がいることが前提の”家族“像がある。

 なぜ?

 子どもをもうける。その前提に“愛する人と”という、枕詞が、暗黙のうちに付着する。

 愛する人も、「この人と子どもを育てたい」と思える人がいなくても、子どもがほしいと思うのは、わたしの傲慢なのか?

 ただの世間知らずなのか?

 なぜ、出会えないかもしれないその人と出会うまで、子どもを産み育てることを我慢しなければならないの?

 わたしの身体は、わたしのもので、わたしの人生は、わたしのものなのに。

 逆に、ずっと一人で生きて、この人の子供が欲しいとか、一緒に暮らしたいと思える人と、70歳で出会っちゃダメなの?

 いろんなふうに生きていいはずなのに、まだ自分で自分を縛っていたり、無意識に刷り込まれているさまざまなら当たり前が、時を超えてわたしをがんじがらめにしてくる。

 感情だけでなく、さまざまな仕組みも、“当たり前”の構築に加担する。

 いろんなふうに、生きていける方法が、なぜないのかな。

 ひとりで、自分の選んだ土地に住み、自分の稼いだお金で買ったベッドの上で、自分で借りた部屋にいる。

 それだけで、じゅうぶんしあわせで、立派に生きているなはずなのに。

 わたしの不安も、恐怖も、誰かが同じ境遇だったとて、誰とも共有できない。分かち合えない。わたしの不安は、わたしのもの。それが孤独であるということ。あなたにわたしの不安が理解されない様に、あなたの不安もまた、わたしは理解できない。というよりは、理解したくない。分かってもらえないと駄々をこね、被害者ぶっていたいだけなのかもしれない。

 分かってもらいたいとも思っていないけど、理解されたふりをするくらいなら、理解できないと言われた方がマシ。

9月11日 17:47

 外で雷が鳴っている。台風が近づいてきているらしい。まあまあ大きいやつ。小さな離島なら、すっぽり覆われてしまうやつ。

 朝起きたら目が、虫に刺された様にパンパンに腫れていた。

 頭がいたい。重い。

 予約していた歯医者で、歯をきれいにしてもらう。口の中で器具が甲高い音を立てるのが、最初はどんな武器を口の中に入れられるのかと鳥肌が立ったが、何度か通うと慣れてきたし、実はあんまり嫌いではないことに気づいた。

 父は歯医者だが、治療をしてもらったことはない。

 ただ、小さい頃、自分で歯磨きをしたあと、父に「おしあげ」といって歯磨きをしてもらっていた期間があり、それは小学校に上がった頃あたりからか、自然となくなっていったけれど、自分ではない誰かに口の中を検査されたり手を入れられたりするのに違和感はないのは、「おしあげ」の記憶ゆえかもしれない。

 頭がいたくて、目も重い。油断すると、昨日のやりとりを思い出してしまって、涙が込み上げてくる。

 大好きな深夜ラジオを聴きながら、運転した。宅飲み以外で買ったことのなかった、大袋のポテトチップスを買った。ひとりでそれを、ぜんぶ食べた。

 バゲットかカンパーニュがほしくてパン屋をはしごしたが、どこもかしこも菓子パンばかりで、シンプルなパンはまったく置いていなかった。焼き上がりまでに時間がかかったり、片隅においてあってもあんまりおいしそうじゃなかった。

 さっき、一瞬停電した。暗いほうが、落ち着く。

 今夜は、蝋燭に火をつけて、部屋の電気は消そう。あと、屋久島で買った、お香も焚いて。

9月12日 20:28

 今日はずっとベッドの上にいた。今週末、ひさびさに、鹿児島を出るのだ。北海道に戻る。

 からりとした、秋を先取りする北海道の9月。北海道では、秋が一番好きだ。その次に冬。色の変わり方がドラマチックなのだ。

 北海道は、わたしにとって、自由に生きることを肯定してくれた場所。

 とはいえ、仕事が詰まっているし、コロナ禍だから親しい人たちとの宴会もできない。ひそかに帰って、ひそかに鹿児島に戻る。

 それでも、いい。遠くへ移動することに、飢えている。

 いつもなら、部屋に引きこもって、ひたすら深夜ラジオの録音を聴きあさりながら、作り置きのおかずを料理するが、その気力が湧いてこない。

 身体が重い。金曜の夜から、ずっと。

 今週末の北海道と、来週引き取りに行く、お直しをお願いしたズボン2本を楽しみに、この夜を乗り越えよう。

9月13日 23:56

 げんきがない。ずっと、眉の上がぼーっと霞んでいる様だ。

 アラビア語の歌を聞く。

 遠くへ行きたい。

 わたしのことを誰も知らない場所へ。

 言葉が意味を持ちすぎて、過剰に臆したり、惑ったり。

 自分の感度さえ、コントロールできれば易いことなのかもしれないのに、おぼつかない。未熟だ。

 わたしに向けられたものでなくても、強い言葉が針のように音もなく心臓を突き刺してくる。

 息が苦しくなる。だからか、遠い国の民族音楽ばかり聞く。

 パキラの葉が丸く欠けた。調べたけれど、症例が見当たらない。

 もっとぐったりしてきたら、もう少し日当たりのいいところへ移動して、日光浴をさせてみよう。

9月14日 21:15

 とてつもなく眠い。今日はこれを書いたらすぐに寝る。週末、あんなにたくさん眠ったのに。寝足りないなんて、まだ若い証拠かしら、なんて。

 昨日よりはげんきが出たけれど、やっぱりずっと頭の中にもやがかかっているよう。

 仕事中、11月の予定を話していて戦慄する。

 もう、11月?

 まだ何にもしてないよ。

 てゆか、何かした月なんて、あったっけ。

 アラブ楽器のウードの弦がわいんわいんと耳の奥でこだまする。お経を聞いた時の、お坊さんの読経の声みたいに。

9月15日 21:48

 この日記を書き終えたら、前髪を切ろう。

 iPhoneの新しいやつを予約した。ある朝、地面に落として左半分の画面が見えていない。『もののけ姫』に出てきた、たたり神に憑かれたように黒いどろどろが画面の端を侵食している。

 「iPhone、ちゃんと資源化されるんだろうな?」とAppleのサイトをくまなくチェック。もはや、使ったらポイ、と捨てられる流れに気持ち悪さが拭えない。

 目の前から無くなったら、きれいになった、と言えるのか?

 見えなくなっただけで、ものはまだ存在している。

 明後日、北海道へ行くのだが台風が接近中。

 どうかどうか、飛行機よ、予定通り飛んでくれ。

 行ったところで、馴染みの方々にはチラリと顔を出すだけだけれど。それでもあのカラリとした、キン、とした空気に触れたい。楽しみだな。

 週末のことを考えると、少しげんきに、なってきた。

9月17日 7:29

 福岡に向かっている。

 昨日の夜、日記を書いていないことを思い出したけれど、早く寝ることを優先した。4時に出発した。

 台風が向かっていると。願うような気持ちで、何度も自分が乗るフライトは欠航になっていないかを確認する。

 北海道から九州に向かう飛行機は欠航だけれど、九州から北海道へ向かう飛行機は、なんとか飛びそうな気配。

 空港でPCR検査を受ける。北海道に着いたら、レンタカーでひたすら北上する。

9月18日 22:22

 あわただしいが、気持ちがいい1日だった。

 起きてすぐ、わたしのつぶやきを見た町内の方が草刈り機を持って来てくれた。ざっと駐車場をきれいにして、手際の良さと速さにありがたくて手を合わせた。

 そのあとすぐえんとつ屋さんが来て、長いこと放置されていた煙突を点検・掃除してくれた。どうやら一刻も早くメンテナンスが必要な状態だったらしく、間一髪。

 やはり餅は餅屋に頼むべし。

 家という、大きなおもちゃは維持費もかかるが自分で手に入れたものだから、だいじにしなければ。という、当たり前のことを思う。

 午後、晴れ。庭では虫の音。

 高くて青い空。紅葉し始めた黄色みがかった緑と黄緑。山葡萄のところだけ先に真っ赤に紅葉して星みたい。

 さいこうだ。天気がいいだけで、気持ちがいい。外で深呼吸するだけで、身体が洗われたよう。

 自分の家に、愛着が増してくる。離れたから、余計に、だろうか。旅先の、宿に帰るときのような心もとなさは無い。

 とけるように横になれる。傷みや劣化を修復したり、草を刈ったり掃除をしたり。時間のあゆみを、わたしも見届けながら、歳をとる。

 やっぱり、変わりゆくものがいい。こわいけど。

 ずっと同じなままではなくて、こわれたりくずれたり、一筋縄ではいかないことばかりだけれど、そのほうが、わたしも変わっていくことを許されているような、変わることを恐れるなと軽やかに諭されているような、そんな気がしてくるから。

 帰る場所がある。物理的にも精神的にも。だから外へ向かっていける。分かっちゃいたけど、物理的な拠点があると、その安心感は絶大だ。巣作り巣ごもりが得意だから、尚更そう感じるのかもしれない。

9月19日 11:12

 車を運転しているだけで、しあわせなきもちになる。

 北海道は、わたしにとってセーフティーネットだ、と思う。

 紅葉し始めた、明るい黄色のくるみの葉っぱや、もふもふの葉を揺らす白樺の並木、「見つかった!」と焦って隠れるように絡み合う、赤い山葡萄。

 朝5時半に家を出て、徐々に強くなる早朝の白い光をあびてきらきらひかる。

 いろんな言い訳を見つけて、北海道へ通い続ける人生が、なるべく長く重ねられたらいい。

 九州の湿気が抜けたのか、こころなしか、足が軽い。

 いつも背負ってるリュックではないからか。

 それとも安心ゆえか。

9月20日 6:25

 疲れて昨日は、パッタリ寝てしまった。起きたらコロネのように布団にくるまっていた。

 なんとなくダルかったり、頭がボーッとしたり、微熱っぽい感じが、ずっと続いている。体調が絶好調な日が、すごく少ない気がして。なるべく早く病院へ行こう、と思う。

 ひさしぶりの北海道、4日目。気持ちのいい朝。

 北海道は、四季のコントラストが強すぎて、誰かが以前「季節によって違う国みたい」と言ったが、まさに言い得て妙だと感じる。

 飽き性なわたしにとっては、ドラスティックに環境が変わるのが居心地がよいのかもしれない。

 よそおいも、暮らし方も、景色も変わる。秋はその過渡期で、橋渡しみたいな季節だが、植物たちが春と夏の間にためこんだエネルギーをパン!と花火みたいに爆発させたように色を変えて、そしてしゅん、と小さくなって枯れたり葉を散らしたりする。その、冬への去り際の華のような彩りが好き。

 同じように一年を繰り返しているのに、変わり方がちがう。たしかに家の維持費はかかるけど(煙突掃除も無事やってもらえて一安心)昨日運転しながら車窓で流れていた景色は、その中にいるだけで安心した。胸の奥がキューっとなった。

 この空気を肺いっぱいに満たしていたい。でも、南の国にはやりたいことがある。どっちも、だいじ。

18:59

 福岡から鹿児島へ向かう。

 駅中ですれ違う若者たちを見ながら、ああ、若い人ってこんなにたくさんいたんだな、と思う。

 10代、20代だったころのこと、嘘みたいにはっきり思い出せるのに、もう今ここのわたしは30年生き切ろうとしている。人間って、意外と長生きするんだな。

 ときどき、かかとの高い靴を履いて、腕みたいに細い足を出して歩いている女の子たちを見かけた。

 ヒールなんて、もうどれくらい履いていないんだろう。

 おしゃれして、デート。おしゃれして、お出かけ。おしゃれして、旅。

 まあ旅は今回できたけど、ハレの機会が減ってしまって、それはそれで物珍しくておもしろいけど、やっぱり緩急がないと飽きてくる。

 退屈は、酸素を減らす。意識がもうろうとして、余計なことを考えるようになる。

 たくさん運転した。Googleマップで調べて計算してみたら、金曜日から今日家に帰るまでに、だいたい932キロ運転したことになるらしい。

 九州一周できるくらいの距離。狭い一車線の高速はこわいのよ。無事故で運転できた自分を労いたい。

 明日の朝、下川町で仲良くしてくれているパン屋さんのハードパンを食べるのが楽しみ。スーツケースの半分はパンで埋まっている。開けたときのにおいも、楽しみ。

9月21日 23:04

 北海道滞在中に急いでまとめた秋冬の服を詰め込み、溶けたキャラメルみたいにゆがんだダンボールと、両親から、ピンクの箱が届く。

 ピンクの箱は、本物の真珠が入っていた。

 学生時代、上京してすぐのときは、段ボールにいろんなものが詰め込まれて送られてきたことはあったけれど、親から何かが送られてくることは、あまりない。ねだったこともないし、僻んだこともない。

 箱の中身は、真珠のネックレスと、ピアスだった。今度、友人の結婚式に着けていこう。

 長距離移動の疲れがまだ若干残っているが、ほこりの玉みたいに蔓延っていたゆううつは、北海道のからりとした秋空で蒸発してほとんど消えてしまったらしい。

 ずいぶんスッキリと、背筋がまっすぐに戻った気がする。

 食欲は、あまりない。お腹が空いて食べることばかり考えていた時期もあるのに、今ではお昼を食べ忘れたことすら、忘れてしまう。食欲はあるのに、食べることの優先順位が下がっている。

 そのかわり、睡眠欲は底なしだ。食べない日があっても問題ないけれど、眠らなくていい日はない。寝ないとダメ。食べないとダメ、でもあるけれど。

 明日は仕事で撮影。写される側は苦手だ。写す側ならいくらでもできるのに、カメラを向けられると「見られる自分」が急にA面に出てきて、ふだんのわたしはB面に押し込まれたようにぐうの音も出ない。しかも「見られる自分」は「品定めをする他者と自分」が限りなくセットで、つまり品評されたときにバツがつかない装いとか見た目とかに仕上げなければならなくて、けれど自分の見た目がいくつになっても点数が上がらない自意識が、品定めされたとて大したモノは見せられないという焦りと恥ずかしさと居心地の悪さを刺激して、カメラを向けられると、下を向くか逃げるか過剰におどけるか、になってしまう。

 真っ直ぐカメラを見る自分、が、どのように写されたとしても、理想とかけ離れていることを推測して、直視できない。しかも、自分がそう思っているから尚更、第三者にも「たいしたことない」とかなんとか思われているんじゃないかって、やっかみ半分投げやり半分恐怖3ミリ、くらいの割合で、目線は下へ、こうべを垂れてくる。

 割り切って仕舞えばいいのかもしれないけれど、できれば撮られるのは死ぬまでに、限られた回数だけでいい。

9月23日 17:57

 昨日は、いつ寝たのか覚えていない。

 暑い日差しと、差し迫るいろいろな〆切と、それに伴って決めなければならない大事ないろいろなこと。

 それらが一度に手元に集まってきて、どこから手をつけようか、頭の整理が追いつかないまま就業時間は終わり、現実逃避のせいか強烈な眠気が襲ってきて、そのまま寝てしまった。

 今日は、同僚の予定に便乗して山登り。

 自然の中にいながら、身体を動かす時間を、できるだけ長く取ろうと思っていたから、車に相乗りさせてもらう。

 眩しい日差しは森の中だと半減以下になる。

 蜘蛛の巣がたくさん張り巡らされて、あんまり人が立ち入らない森なのかなと思いながら、大雑把に舗装された道を登る。

 こもれびが、風で小さくなったり大きくなったりするのを見ながら、ずっとこういうところに居たいなあと思う。

 山頂は見晴らしが良く、天下を統一した気分になれる。気分だけだが、高いところというのはいい。何もしていないけど何か偉業を成し遂げたような気になる。

 下山しながら滝を見て、カフェでお茶して解散。

 化粧も落とさず寝落ちしてしまった昨晩の怠慢を取り返すかの如く、帰宅後、すぐにバックパックを放り出し、すぐにシャワーを浴びた。

 もう、一晩化粧を落とさないだけで肌への負担は誤魔化せない歳になるんだから、と自分を戒めてみるが、仕事をする上でもう少し、いろんなことを手放したり順序立てたり、猛進しすぎないでコントローラブルにならないと、集中力が散漫してしまう。それがよけいな心労を引き起こす。

 なぜ、昨日はあんなに憔悴していたのか、自分でも分からないが、分からないと解決できないよな、とまた反省会が始まる夕刻。とりあえずハーブティーを飲んで落ち着こう。

9月24日 21:02

 仕事で、2年ぶりくらいにヒールを履いた。

 どうやって歩けばいいか分からなかった。ピンヒールは、身体のバランスがとりづらい。体幹が鍛えられる。

 途中、足がギューっと痛くなって、すぐに脱ぎたい衝動に駆られる。時々履くくらいでいいな。

 歳を重ねることは、こわくはないが、いろんなリミットが差し迫って他人事ではなくなる。

 「まさか自分が」と思っていたいろいろな、ファンタジーめいたできごとが、急に生々しさを帯びてきて「あれ、歳をとるってつまりこういう生々しさとともに生きていけということ?」と突然変わった人生のステージに、狼狽。

 いろんなことを手放したり諦めたりして、それでもしがみつきたい未来もあって、早く戦線離脱して空気になりたい気持ちもあって、自分の矛盾に板挟み。

 まじめに生きてきても、何もかも手に入るわけじゃない。報われない事の方が、多いかもしれない。

 それでもギリギリ絶望しないでいられるのは、健やかに生きる歳上の先輩たちがいるからだし、絶望を経て捨てた余計な欲が灰になって、そこから生まれた新しい高揚感は、予期していなかった未来を引き寄せてくれる。

 思い通りになんて、いかないと思っていた方が、案外思い通りにいくのかもしれない。

9月25日 22:28

 今日は朝から、部屋を掃除し、洗濯し、お米を炊いた。フル稼働したら猛烈な眠気に襲われて、お昼寝。

 そのあと、車の助手席の収納が壊れたのを直してもらい、裾上げしたズボンを2本、受け取りに行った。もともとの着丈が思い出せないほどきれいな仕上がり。神は細部に宿る。

 途中、野菜を買い込み(少し安く売られているところを発見)帰宅。本を読み、料理をしようかと思っていたが、少し横になったらいつの間にか寝てしまったらしい。起きたら、こんな時間。

 物語の語彙を鍛えたい。小説は、そのためにちょうどいい。

 最近は、夜照明をつけず、ろうそくの明かりで過ごす。

 それだけで、ずいぶん、落ち着く。

9月26日 16:56

 ちょっと遠出して、カフェへ。

 積読になっていた本を読む。本の中の、小説家の言葉に、創作意欲を刺されまくる。

 言葉は流動的で、放った瞬間、自分だけのものではなくなる。

 この日記も、自己満だけれど、読んだ人に、どう受け取られるかまで、わたし自身は意図的に操作できない。

 どう受け取ってほしいか、を緻密に考えることはできるけれど、すべてが筋書き通りにいくわけではない。それをおもしろがれるのは創作で、仕事はそうはいかない。

 受け取られ方を楽しめる「創作」という大草原は、常にかたわらに置いておかないと、雑然としたものをおもしろがる感度が下がってしまいそうで。

 バキバキにキマったコピーライティングを、世の中に送り出したとして、その含意は、筆者自身の意図とは違う角度で露出したりする。

 それでも本質が揺らがず、骨子の強い言葉とは?

 そんなことを考えながら、いろんな人がコーヒーを飲んだり談笑したりする様子を眺める。

 彼ら、彼女たちに、「これは自分に向けられた言葉だ」と、受け取ってもらえる言葉とは?

 同時に、本を読みながら、紙の質感で受け取られる情報量の多さに、改めて高揚した。

 明日から、仕事のやり方を変えなきゃなあ。

9月27日 21:31

 すずしい。冷房いらずなだけで、こんなに気が楽。鈴虫のような声がとぎれとぎれに聞こえてきて、静かだけど、さびしくない。

 そういえばこの虫の音は、昼も聞こえる。一日中、鳴き続けているのだろうか。なんのために? ひとりで?

 重要なことはあまり片付いていないが、一日中気分は落ち着いていた。先週が鬱なら、今週の始まりは、完全に躁(比喩)。顔中の肉とパーツが重力に負けて疲労のままに下がり切って項垂れてしまいそうだった先週に比べて、やっぱり基礎体温高めだけれどそれは自家製ジンジャエールのせい、と言い聞かせて歩く足取りは軽い。先週よりずっと、適度に「まあいっか」と思える。

 20代から30代に変わったとて、何かが劇的に変わるわけではない。

 去年の今頃は、徹夜で小説を書いていた。フランスのLenore Boulangerというアーティストのアルバムをエンドレスリピートでかけながら、0度近くまで下がる気温の夜、ひとりで。

 変わろうと思えば、いつでも、どうにでも、変われる。

 昨日読んだ本に、アフリカの商人の話が出てきて、彼らは「人は裏切るのが当たり前」だという価値観があるのだという。

 そして、今日は羽振りが良くても明日は貧乏かもしれない、という予測のもと、その人のビジネスが安定しているかどうかより、いま目の前にいる相手のコンディションと商売相手に足るかどうかを見定めるのだという話。

 何度読んでも正直あんまり腑に落ちないけれど、おもしろいなとは思う。

 今日のわたしは具合が良くても、明日のわたしは最悪かも。

 先週のわたしが鬱屈としていたけれど、今週はお気楽にお弁当を作る余裕があるのと同じように。

 どのタイミングの、どのわたしと、どの調子のアナタに出くわすかは、分からない。今日の敵は、明日の友、その逆もまた然り。

 それくらい不安定なのが、デフォルトの世界であれば、やさしさも期待しなくて逆に心地いいかもしれない。

 できるだけ殺伐としないで生きていきたい。

 同じ”当たり前”を共有できる人が少ないから、四苦八苦するのだろう。おだやかさは、自意識を手放せば手に入るよ、きっと。

 まあそれが初めからうまくいったら、誰も気を揉んだり後悔に身を捩ったり、しないよね。

9月28日 19:09

 朝涼しくて、ゆっくりごはんを食べられただけで、今日はもうはなまる、という気分になる。

 日中はじっとりして、通り雨が気のせいかと思うほど短い間だけ降った。台風が近づいているらしい。

 会社のメンバーにお祝いしていただき、かわいいケーキをみんなで食べた。お祝いしてもらえるって、うれしい。しかもピンクのクリームは、ラズベリー味で、ますますうれしかった。

 他の日々とは変わらない、延長線上の、点、みたいな一日。

 かつては盛大に祝われたい欲が、自己肯定感の低さとこんがらがって、一人無言のまま胸が詰まる思いをしていて、あのコンプレックスの搾りかすみたいな感情は、なんだったんだろうと10年前の自分をなつかしく思う。

 スペシャルな何かが、あってもなくても、今日を生ききれたから、もうそれで、いいじゃん。その穏やかさを積み重ねながら、次の10年は、過ごしたい。

 日記、とるにたらないことばかりしか書いていないけれど、とるにたらないことは日記をつけるルールを課さないと、本当に取るに足らないまま、記憶にも残らず無かったことになる。それでいいこともあるけれど、メモ書き程度にも、残しておくの、いいなって思った。

 遠目から見たら同じ足跡でも、よく見れば一つ一つ、体重の乗り方、足先の向きなんかがちがうように、一日ずつ、自分は変わっているのだから。その変遷を、ていねいに見つめる行為は、未来へ未来へと、前のめりになりがちな日常の中で、自分の足が地面についているかどうかを見返すいい機会になる。

 そういう機会に、きちんと価値を感じられるようになった時点で、すりへらした20代とはだいぶ変わったよ。おつかれさんだよ、神経すり減らしていた、過去の若い自分。

 というわけで。

 さようなら、20代。

 はじめまして、30代。

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。