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エピラ(19)消えた記憶と残った記憶

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。自称医者の男・クレスを訪ねたニカは、父・シマテの足は北の国に行かないと治らないと告げられる。雑木林の帰路の途中、ニカは迷子になり、灰色の建物を見つけた。おそるおそる近づくと男たちの怒号が聞こえ、身を隠していると灰色の建物から強烈な光が天を突き刺し、ニカはそのまま気を失った。

登場人物

ニカ : 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
クレス:第23集落に住む、エピラの自称医者
シーラ: 第23集落の図書館の司書

用語紹介

エピラ :南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。
ダチェル:止血効果のある茶色いひだ状の木の実

 どれくらい目を閉じていただろうか。

 光が瞼の裏に差し込んだ時、ニカは、なんだか懐かしい感じがした。

 ずいぶん長い間眠っていたような、不意な昼寝のような。

 けれど瞼から差し込む白い光を迎え入れると同時に、身体のあちこちが、急に思い出したように、倍速で痛みを引き寄せた。

 そうだ、確か。

 思い出そうと、もう一度目をぎゅっとつむる。身体は、全身に鉛をつけられたように動かない。

 確か、わたしは──。

 「気が付いたか」

 聞いたことのある、低い、井戸の中から聞こえてくるような、くぐもった声。

 まだ細くわずかにしか開かない瞼の隙間から、とらえた姿は四角い肩。日焼けして紫っぽく変色したボサボサの髪の毛。火山から飛び出してきたような尖った爪、泥がついた赤茶けた手のひら。

 「ニカ!」

 耳元で、もう一つ聞こえた声は、やわらかく強い、川の流れのような声。

 「母さん」

 ニカは唇を動かした。すると口の中が微かに鉄の味がするのに気が付いた。

 全身が痺れている。少しでも身体を動かそうとすると、右太ももと二の腕の裏、背中が特に激痛が走る。

 「よかった」

 モカレは、ニカの手の甲をさすった。本当は抱きしめたかったが、全身打撲をして口の中を切ったニカを抱きしめるのは、あまりにも無邪気すぎた。

 モカレの隣には、シマテが立っている。

 「わたし……」

 「倒れていた」

 シマテはニカを見下ろして言った。ニカの視界は、まだ黒い点滅した影にほとんど支配されている。だからシマテがどこを見ているのかは分からなかったが、声はまっすぐにニカの眉の間に届いた。

 「川向こうに倒れていたのを、門番が見つけたんだ」

 「全身青あざだらけでね」

 モアレの吐き捨てるような声が、二人の気配の奥から聞こえた。

 「まったく、シマテの次はお前かい。いったい何人怪我をすれば気が済むんだい」

 悪態をつくモアレの浅い吐息すら、懐かしい。ニカは黒い点滅する影の間から見えたモカレの瞳を確認した。

 「なんだっていいよ、生きてくれてさえいりゃ」

 モカレは熱を生みそうなほど何度も手の甲をさする。シマテは隣に立っていて、見上げようとすると背中が痛み、ニカはシマテの視線だけを受け取って、ふたたび目を閉じた。

 モカレの話によると、シマテとモカレが畑から戻ってきたとき、ニカはすでにいなくなっていた。無断で家を空けることなどなかったから、シマテはまず周辺の家にニカを探すよう頼んで回ったと言う。

 モカレも、ニカが足を運びそうな市場や図書館へ探しに行った。図書館ではシーラにニカの行方を尋ねたが、「アイスをあげたけど、どこへ行くかは聞かなかった」と言い、何も知らない素振りだったという。

 日中、激しい通り雨にあい、捜索は中断した。

 その後、日が暮れるまでモアレもシマテも集落中を探し回った。けれど、ニカは見つからなかった。

 いよいよモアレが発狂しかけたとき、川向こうを探していた隣人が二人に駆け寄ってきた。ニカは、川岸に、仰向けに倒れていたという。

 「身体中あざだらけだったんだ。まるで強い力で全身を打ちつけたように。でも、濡れていなかったから、川から流れてきたわけではない。どうしてそんな怪我をしているのか、覚えていないんだろう?」

 そう、ニカは自分の身に何が起きたのか、まったく覚えていなかった。

 ただ、クレスと会ったこと、海鳥の羽根を追いかけていたことは覚えている。その先を思い出そうとすると、急に頭の血管が開いて、どくどくと脈打ち、締め付けるような痛みがする。

 まるで何か見てはいけないものを思い出さないように、誰かが強く蓋を押さえつけているみたいだ。

 「それから」

 翌日、朝の粥を持ってきたモカレは、事の顛末をニカに話して聞かせた後、付け加えた。

 「これを持っていたよ。どこへ行っていたのか、思い出せないかい?」

 モカレが差し出したのは、ロウ引きの茶色い封筒だった。

 その中には、粉々になったダチェルの実、そして虹色の羽根が入っている。

 その感触を確かめた瞬間、ニカは急に息が苦しくなり、全身の毛穴から汗が吹き出した。

 「そうだ」

 「え?」

 「こんなこと、している場合じゃないんだ、母さん」

 「どうしたの、ニカ」

 「父さんが、父さんが死んじゃうんだ」

 「何を言っているの」

 「このままだと、父さんが死んじゃう」

 「落ち着きなさい、ニカ」

 「北の国に行かなくちゃ」

 「え?」

 「北の国に行かないと、父さんは」

 ニカが突然目を見開いて、まとっていた寝巻きを脱ぎ始めた。モカレはニカの豹変ぶりに動揺しながら、ぶち模様のように痛々しいあざが残る華奢なニカの身体をやさしく包み込んだ。

 「落ち着きなさい、ニカ」

 「だめだよ、早く行かなくちゃ」

 モカレのなだめは、ニカの耳には届かない。

 茶封筒を握りしめ、ニカは寝室を這い出た。そして畑にいるシマテを見つけ、窓からほとんど落ちそうになるほど身を乗り出して叫んだ。

 「父さん! 父さんの足を治す方法が分かったんだ!」

 モカレは、掠れるように声をあげるニカの腰を抱きしめ

 「ニカ!」

 と叫んだ。

 「まだ寝てないと」

 モカレに抱きかかえられ、ニカは途端に力が抜けた。あの茶封筒とダチェルの実を見た途端、クレスの顔と、クレスが話してくれたことがフラッシュバックしたのだ。

 クレスの家で見た、通り雨の最中に近くで落ちた雷の光が、全身打撲のニカの視界に残る黒い点滅と、シンクロした気がした。

(つづく)

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