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エピラ(16)父親のことは好きか?

前回のあらすじ

とある北の国と南の国の物語。ニカは足を負傷した父を救助した、自称医者の男を訪ねた。23集落と22集落の出入り口で再会し、北の国に行かないと父の足は治らないと告げられる。

登場人物

ニカ: 南の国の第23集落に住む、12歳の女の子。
シマテ: ニカの父親。クル豆農家。第18集落で事故に遭い、左足を失う。
モカレ: ニカの母親。クル豆農家。
モアレ: モカレの母親で、ニカの祖母。足が悪く車椅子生活。
クレス:第23集落に住む、エピラの自称医者
シーラ: 第23集落の図書館の司書

用語紹介

エピラ:南国で生まれ育ちながら北国へ移住した人、北国へ移住したが南国へ出戻りした人を指す。

 雨は、止まなかった。

 いまが昼なのか、夕方なのか、それとももう日暮れなのか。時間が分からないほどクレスの部屋は薄暗かった。

 ニカは呆然と、木の実と紙切れを見つめたまま動かない。

 この木の実に、なんの効果があるというのだろう。

 クレスは、自分は医者だと言うけれど、父さんの足の怪我を治そうとはしない。

 血を作るらしいダチェルという、聞いたこともない木の実をゴロゴロ手渡すだけで、あとは黙っているだけだ。

 ニカは、力なく椅子に座り込んだ。ほとんど、足に力が入らなくなって、くずれるように膝が曲がった。

 「つらいか」

 クレスは、ニカが怒った反動で転げ落ちたミントティーのマグカップを拾い、それを手に取ったまま言った。

 「私の母は、助からなかった。お前さんの親父さんと違って、大怪我をしたのは川の上流だった。足を滑らせて、岩の間に体が挟まったんだ。

 私が住んでいた村には医者がいなくて、3つの山を越えなければならなかった。でも、森には獣もいるし、私たちは馬も手放したばかりで荷車しかなかったから、医者のところに行くには何日もかかる。私の母や、お前さんの親父さんは、一度血が流れるとなかなか止まらない。毎日少しずつ、血が流れ続ける。そういう体質なんだ」

 「どうして」

 ニカは、小指の爪ほどの茶色いひだが重なり合うダチェルの実を、手のひらの肉に食い込むほど強く握りしめて言った。

 「どうして、クレスの母さんと、わたしの父さんは血が止まらないの? どうしてクレスには、それが分かるの?」

 「医者だから」

 「医者なら、どうして父さんを治せないの?」

 クレスは黙って、ニカを見つめ返した。

 ずるい。

 何か都合が悪い質問をすると、いつもクレスは黙りこくる。何も言われないと、驚くことも怒ることも、次の疑問もわいてこない。だから、ニカも黙るしかない。

 クレスとの沈黙は、ますますニカを迷子にさせる。

 ニカは、まだ自分の膝とは思えないほど力が入らない足を、なんとか床に下ろして、赤い小さな扉へ向かって歩き出した。

 分厚い雲からふりしきる雨は、窓や扉を叩きつけている。

 このまま、何も分からないまま時間を過ごしても、沈黙が積み重なるだけだ。

 ニカが赤い扉の、くすんだ鉄の取手に手をかけたとき

 「お前さんは」

 とニカの背中に、クレスの声が呼びかけた。

 「父親が好きかい」

 「え?」

 「お前さんの父親のことを、好きかい」

 クレスのエメラルドグリーンの瞳に、雲の隙間から突然差し込んだ日差しが、つるぎのように差し込む。

 雨音の強さは弱まらないけれど、雲が少しずつちぎれて、クレスの目元の光のつるぎが太く、長くなっていく。

 「父さんのことは……」

 好きか、と聞かれても、

 「分からない」。

 分からないのだ。ニカにとって父親のシマテは、何を考えているか分からない、クレスにも負けないくらいの大男でしかない。

 毎日、飽きもせず畑へ行き、豆を育て、モカレを連れて行商に出る。戻ってきても、畑で仕事をしているときも、ちっともニカと目を合わせない。

 ニカと二人きりになるのを避けるように──。

 「父さんは、わたしのことを好きじゃないと思う」

 ニカは、無意識にクレスの真似をして、質問に直接答えず、そう言った。

 ニカの言葉に、クレスはじっと見つめ返し

 「どうしてそう思う?」

 「だって、父さんはわたしのことを突き飛ばしたり、畑に入らないように叱ったりする。食事をしているときも、家にいるときも、わたしと話をしたがらない」

 「それは、お前さんのことをきらいだからだと、親父さんが言ったのかい」

 「言ってないけど、嫌いに決まってる。母さんやばあちゃんは、わたしと話をしてくれるし、目も合わせてくれる。父さんだけだ。父さんが笑っているところを、見たことがないもの」

 「じゃあなぜ、親父さんを助けたい?」

 「……それは」

 「親父さんの怪我をなんとかしたくて、一人でここまで来たんだろう」

 クレスの目元に差し込んでいた陽射しは、クレスの顔全体を照らしている。雷の太い音は、いつの間にか耳をすませないと聞こえないほど遠くへ行ってしまった。

 薄暗い部屋で、少しずつ闇が蒸発していく。ニカは、なぜ、と問われたクレスの質問に答えられないまま、雨上がりの空から差し込む陽射しに思わず目を細めた。

 「私も、ニカのように必死になれれば、母も無事だったかもしれないな」

 クレスのその言葉は、ニカの耳には届かず、代わりに小屋の近くに枝葉を伸ばすけやきに飛んできた鳥のさえずりにかき消された。

 「ああ、雨が止んだようだな」

 クレスは立ち上がり、ニカに茶色いロウ引きの袋を手渡した。

 「ダチェルが濡れないように、この袋に入れて持っていくといい。粥を作って、親父さんに飲ませるんだ。いいね」

 ニカは、まだクレスの質問に対する答えを見つけられないでいた。クレスは、ニカの視線に合わせるようにしゃがみ込み、ニカの両手からダチェルの実をやさしく取り上げ、袋に詰めるとニカの手元に乗せた。

 「時間はない。早く帰って、粥を作ってやれ。それから、北の国へ行くんだ。なるべくすぐ、雨季が来る前に」

 夕立はすっかり止み、小さな小屋の中は、白い太陽の光でいっぱいに満たされた。

 (つづく)  

 

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