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成長より変化を愛でたい

 クリスマス前から空咳がとまらなくなった。

 度重なる寒気に襲われ朦朧としながら抗原検査キットを取り出し、コロナ陽性の検査結果が出てから数日間は、一年分の寝不足を取り返すが如く眠りこけた。

 さまざまな友人・知人から、お見舞いの言葉をいただく。ありがたや。

 ときには、差し入れまで。ありがたや、ありがたや。 

 生かされた数日間だった。

 罹患してから5日後くらいには、鏡で自分の顔を久しぶりに見て「こんな顔してたっけ」と首をかしげたり、声が出なくて佐川急便のお兄さんを困惑させたり、行政から届いた実家からの仕送りみたいな救援物資を眺めながら、これらを詰めた担当者のひとりごとや作業の段取りなんかを想像したりした(5個1セットで販売されているようなフリーズドライのスープなんかがバラバラにされ、小さな袋がダンボールの隙間に入っていて、それがなお手作業感を彷彿とさせた)。

 自宅待機期間を終え「あーしんどかった」と思う。コロナ。風邪と言うひともいるが、しんどめの風邪だった。

 わたしの場合は、咳から始まり、寒気、そして頭痛と喉の痛みがはげしかった。特に喉。

 腫れに腫れた。唾も飲み込めない。飲みものも食べものも、文字通り喉を通さない。

 焼けるように痛い。というか、喉がまるまる焼けちぎれるようだ。

 喉の腫れで窒息するかと思った。

 あらゆる厄を、新型コロナウイルスが巻き取って、2022年に捨て置いてくれたのだと思えば、急遽キャンセルした諸々の楽しい予定も浮かばれるだろうか。

 ようやく快復したし、年の瀬だし、今年の振り返りでもするかと書き始めたnote。

 「けれど、今年のこと、あんまり思い出せないなあ」などと筆が止まり、数日。年末に、コロナにうなされていたからだろうか。しらけた気持ちになってしまっていた。

 それでも、友人たちと話をして、思い出したことや、ほんやりではあるものの考えていることが言葉になり始め、しらけて渇いた部分も、ひた、ひた、と、うるおってきた。そこで、やっと、再度筆をとる。年は、明けてしまったけれど。

アズキナシ
アズキナシ

 ここ数年、自分の最優先の願望は、変わっていない。

 「自由でありたい」。それだけ。

 本当はお金のことなど気にせず、好きなときに好きなところへ旅をし、土を触って野菜を育てたり、犬と暮らしたりしたい。誰にも評価されたくないし、誰かを評価したくもない。

 「いま、自由かな?」と、自分に聞いてみる。

 Yes と、No。どちらも正解。

 「Noならば、どうしたら自由になれる?」と、もう一度自分に聞いてみる。

 自由に生きられるのが、スペシャリストなら、なにかしらの専門性があるべきだけれど、わたしの専門性ってなんだろう。

 ジェネラリストになれば自由に生きられるのなら、何事も卒なくこなせるようになりたいが、そんなに器用でもないしなあ。

 生活とか文化とか、そういう、社会的価値(お金とか技術とか)に即換算しづらいものにばかり興味がある。誰かに聞かせたところで「へー」以外の感想が出てこないような知識ばかり増えていく。

 もう少し、勇気を出して、そういうものに振り切って傾倒したほうが、わたしの心身の健やかさは保たれるだろうか。どうしても、分かりやすい技術的な得意性を獲得しなくちゃと思うけれど、長続きしないのが目に見えている。目的のための手段だとしても、その手段を駆使するプロセスに愛着や楽しさを見出せなければ、3秒で飽きてしまう。

 結果、自由であるための方法は、いまだに分からない。

 とはいえ、いつだって、いちばん納得するほうを、選んできた。

 少しでも、違和感を感じたら、すぐやめるし、すぐ退く。

 それを「逃げる」と表現する人もいるだろうが、わたしにとっては「逃げる」とは「考えたり感じたりすることを放棄する」と同義に近い。

 なんでもかんでも、自分で決めたい病のわたしにとって、違和感に鈍感になるのは心が死ぬ前触れだから、危険。違和感を覚えているうちが、健康であり、生きることに集中できている状態。

 自由でいるために、違和感発見機は、鈍化してはならない。

 違和感発見機が鈍化しないために、やっていることは、心地いいことと苦手なこと、戸惑うことや憤ることなどに、タグづけをすることだ。

 白黒つける判断は保留する。人に強く勧めるのは苦手。代案は「置いておく」程度にして強要しない。環境や気候危機に関わるあれこれは、学びがいがあるものの、さまざまな分野が利権と深く関わり過ぎていて、途方に暮れるばかり。晴れた冬の日は最高。

 「これが正しい」と強く主張できない。たとえば、使い捨てプラを使うことへの生理的嫌悪感は、増していくものの、その個人的感情を、どこまで、誰と、分かち合えるものか、まだおそるおそる。

 要領も良くないし、学があるわけでもない。

 投げやりではない。「それが自分だ」。

 と、ある意味諦めたところで「成長しなくても生きていける物語」に興味がわいてきた。

 何かをつかみ取る冒険譚や、トライアンドエラーの結果、一皮むける成長物語、人情に訴えるハートウォーミングストーリーも必要だが、自分がつくる物語に置き換えるならば「成長しない」もしくは「成長を求めない」ものが書きたい。

 換言すれば「そのままでいいよ」という甘やかしになるのかもしれないが、すこし違う。

 誰も肯定も否定もしない、ただ「そこに在る」だけを淡々と描く物語。

 おもしろみの、カケラもないだろうか。

 一番むずかしいテーマだと思う。

 昨年の、特に後半には、何歳になっても学び続ける人や、新しいことを楽しんでいる人の話を聞いては、勇気をもらった。

 彼らは「成長したい」なんて、きっと思っていない。「変わりたい」とは、思っているかもしれない。

 わたしも最近は「成長」という言葉への違和感がぬぐえない。20代の前半くらいは、「成長」したくて、息巻いていたかもしれない。

 やりたいことをやりたい。がまんしたくない。そのやりたいことが、お金を稼げることにつながることもあれば、まったくつながらないこともある。それでいいじゃない。それじゃ、だめ?

 ……という、よるべのなさを、以前はnoteに書き殴っていた。

 「わたしはこんなに傷ついて、こんなに世の中を憂いている。どこにも属せない、属すつもりもない。価値を見出せない世の中が不毛だ」とむき出しの敵意で抗議した。

 けれど抗議は、抗議以上に受け取られることはない。名もなきモブキャラの戯言にすぎない。

 物語は、どうだろう。

 フィクションは、良くも悪くも、一人歩きをはじめる。わたしが書くものはまだ、脚力が弱いけれど。

 だから引き続き、物語は書き続けたいし、それらを以て、自分の「在るだけ」の価値を確認したい。

 変化は「在る」という動詞の、一点にすぎない。

 種から芽が出て茎が伸び、葉が増え蕾がふくらんで、花が咲いて散って朽ちる──この一連の無駄のない流れは、成長ではなく変化のうずまき。種や茎や、葉や花や枯れ枝に、優劣はない。

 一旗あげなくても、変化を愛でる、その愛で方を追究する一年を過ごしたい。自由に燃え尽きながら。

読んでいただき、本当にありがとうございます。サポートいただいた分は創作活動に大切に使わせていただきます。