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ピザ一切れ分の


3歳の寒くなってきた季節に、両親にディズニーランドへ連れて行ってもらい、お昼に箱に入ったピザを買ってもらった。6ピースあるので、父母私でニ切れずつ分けた。
大根の煮物などの渋い和食メニューしか食卓にでたことがなかったので、カラフルで西洋の香りがする、このハイカラなピザという食べ物を初めて目の当たりにして興奮した。

「このハイカロリーそうな食べ物は絶対にうまい。」

生まれた時から大盛ミルクを貪っていた天性の食いしん坊の私には、3歳にして食べる前から直感的にわかっていた。

まずは一切れにかぶりつき、体験したことのない西洋の味とハイカロリーの魅力に圧倒された。
うまい…うますぎる…。
母から当時のことを聞くと、目を輝かせながら食べていたらしい。

しかし、世界というのは平等にできていて、そんな天使にも悲劇が起きる。

二切れ目を手にした時、一切れ目を食べ終えた手には油がべったりとついていて、そんなハイカロリーなものを手にしたことがないのでうまくつかめず、アスファルトの地面に落としてしまった。

まだ一口も食べていない
綺麗な状態の
まるまる一切れだ。

あまりにもショッキングなことだったので、あの時の感情をはっきりと、鮮明に覚えている。
それまでの人生3年間生きてきた中で、初めて味わう挫折感と深い悲しみと心の痛みだった。

どうしてビザが床に落ちているのか。
どうしてこんなことになってしまったのか。
どうすればこのピザを食べられるのか。
なぜ落ちたものは食べてはいけないのか。
誰が、何が悪かったのか。
どうすれば救われるのか。
この一切れを食べずにどうやって生きていけばいいのか。

ぽっかり空いたピザ一切れ分の胃袋と心。
満たされないピザ一切れ分の胃袋と心。
はじめて絶望を味わった瞬間だった。

そこからの私は断末魔の叫びをあげ、ミッキーミニーのパレードを見ても上の空で、何をしたって満たされず、ただずっと「ピザ…」と時折呟いていたらしい。夕食までの時間、途方もなく悲しみに暮れた。

喜びが大きい分、悲しみも同等あるいはそれ以上に大きい。


28歳の秋、今朝も私は不慮の事故で卵二つを使ったスクランブルエッグをお皿ごとひっくり返して床へ落としてしまった。スクランブルエッグにケチャップをかけようか、塩昆布をかけようか、ウキウキ考えていた気持ちまで一気に転落して行った。

そうだ。
毎度私はご飯で絶望して、ご飯で一生の喜びも感じる。本質的な部分はそうそう変わりはしないのだなと25年越しに感じた。

変わったのはあの時ほど絶望しなくなったことと、断末魔の叫びをあげることは無くなったことくらいかな。

あの時の私は欲求に素直で、自分の感情に素直で、周りの目を気にせずに表現できていたな。

いつからか、欲求は悪いもので、本当の気持ちは隠すもので、他人の目を気にしながら好まれることだけ表現しなくてはと思っていたな。
3歳の頃の自分のままでよかったのに。

肌寒くなってきてからディズニーランドを見かけると、記憶が蘇ってきて未だにあの時の心の古傷が痛む。こんな文章を28歳になっても堂々と書けてしまうほど、厨二病であることも昔と変わりない。

生涯現役厨二病で生きるために、最低限必要である丈夫な胃腸と底なしの欲望(食欲)はある。

100歳までピザ一切れ分の胃袋と心がぽっかり空いたまま、泣き喚きながら暮らしていく。



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