[エッセイ]風の強い日の通勤
駅で困った人を見つけたとき、どうしますか?
わたしはあまり時計を見ないで動く人間です。
平日朝に会社に行くときは、どんなにゆっくり準備しても間に合う時間に起きて、適当に準備して、適当に家を出ます。
時計を見るのは、朝起きたときと、玄関を出るとき、次に見るのは最寄り駅に降りたときくらいでしょうか。
最寄り駅についてから時間がなければ、会社まで走っていきます。一方時間があるときは、30分とかやたらと時間が余っていたりするので、コンビニに寄ったり、カフェに行ってみたり、たまに困っていそうな人に手を差し出したりします。
今朝は、あっという間に準備も済み、電車の遅延もなく、途中でうっかり逆方向の列車に乗るというアクシデントもなく(5年くらい働いているのに、いまだに数ヵ月に一度やる)とても早く職場近くの駅に着きました。
会社までは徒歩10分弱、出社時間までは40分以上余裕があります。
そのまま早くに出社して、やる気満々のように見えるのもいやなので、時間をつぶそうと改札を出て駅構内のカフェに足を向けると、駅から屋外への出口あたりで、困ったように手元の地図と周囲を見回す人が見えました。
会社員でしょうか。きちんとスーツを着込み、ネクタイを締めた中肉中背の一反木綿でした。少し迷いましたが、ちょっと決心してそのこまったような一反木綿に近づき
「どうしましたか?」
となるべく無害っぽい人間のような笑顔を向けます。
近づくと木綿は清潔な真っ白でアイロンがかけられた直後のように伸びていますし、上品な香水が微かに香っていました。かなり身なりに気を付けるタイプのようでした。
「あの、こちらに行きたいのですが……」
そう言って地図を示した一反木綿の声は冷やした木綿豆腐のように涼やかでしっとりとして、通り過ぎない心地の良い声でした。服装から男性かと思っていましたが、声のトーンが女性のようにも聞こえます。
彼、もしくは彼女が手にしている地図を見てみると目的地は、わたしの職場でした。そういえば前日に来客があるというメールを見たような気がしました。
出社のついでに道案内をしてもいいけれど、道中失礼があれば後で叱責されるのはわたしです。最近は理不尽なことで怒る人は社内からいなくなりましたが、お客様の場合はその限りではありません。まだどこに逆鱗があるかわからない相手と余計な接触は避けた方がよいのです。
触らぬ一反木綿にたたりなし、ここは身分を隠して道順だけ教えてしまおうと、「ここでしたら……」と駅から左方向に延びる道を指しました。すると、
「そうではないのです」
と彼女は遮り、少し恥ずかしそうに
「風が強くて……」
と続けました。それで、ああそうかと理解しました。
この駅は海に近いせいか、この時間とても強い風が吹きます。時には人間のわたしでさえ真っすぐ歩くことが困難なほどです。一反木綿である彼女にはかなり危険な風なのでしょう。
「ご一緒しましょうか。わたしはこの後時間がありますので」
わたしの一言に、明らかにほっとしたような彼女は「大変申し訳ないのですが、そうしていただけると助かります」と眉を困り顔の八の字にしたまま答えました。
わたしたちは、彼女が立ち往生していた出口の前から引き返して、一つ下の階に下りることにしました。駅の改札は二階の高さにあり、同じ階の出口から出て、一階のバスターミナルの上を渡る歩道橋を通り、外階段から公道に出るほうが道はわかりやすく、彼女の手元の地図もその経路を示していました。しかし、歩道橋と外階段は特に風が強く吹くので、駅の中から一度一階に下りてしまって、バスターミナルを突っ切って行った方が、人より軽い彼女と小柄なわたしには良い道でした。
彼女はとても礼儀正しい一反木綿でした。
「こんなに風が強いとは思わなくて、本当に申し訳ないことです」
と困り眉のまましきりに恐縮する彼女を見て
「大丈夫です。迎えをよこすくらいすればよかったのですが、なんだか気が回らなくてすみません」
と言い、わたしが彼女の目的地の社員だということを告げてしまいました。
彼女はとても驚き、約束の相手の名前と部署を教えてくれましたが、わたしにはあまり関わりのない部署で、名前も聞いたことのある程度の社員でした。
「すみません。そちらの部署のことはあまり把握していなくて……」
「いえいえ」
彼女の眉尻はずっと下がったままでした。たぶんそういう顔つきなのでしょう。
バスターミナルの外は少しだけ強い風が吹いていました。
わたしくらい重さがあれば問題ありませんが、人ならざる彼女には強すぎるかもしれません。
「えーっと……」
腕につかまりますか?と提案しかけて、ふと考えました。
一反木綿のスキンシップはいったいどの程度まで一般的なのかわかりませんが、腕に巻き付いてもらった場合、人間でいうところの「腕を組む」状態になるような気がしました。一般的な初対面の日本人は腕を組んで歩いたりしません。わたしの戸惑いを察した彼女は
「バックの取っ手に捕まってもよいでしょうか?」
と少し首をかしげました。
「それでも良いのですが……」
わたしはきれいにピンと伸びた彼女の表面を見つめました。そして、ちょうど買い物バッグを持っていたことを思い出し、これを取り出しました。
「もしよろしければ、風の強いところを通る間だけでも、こちらに入りませんか?せっかくの木綿が皺になってしまいます」
駅ビルから離れ、特に風の強いところを通りすぎると、彼女は遠慮がちに買い物バッグから顔を出し、やはり外に出てバッグの取っ手につかまりたいのだがどうだろうかと尋ねてきました。防水加工のバッグの中は息苦しかったようです。買い物バッグを大きく開けて彼女のしっぽの部分をPCバッグの取っ手に絡みつかせてあげました。
わたしのバッグにチャームのように取り付き、そのままふわふわと浮かんだ彼女から、また甘い匂いが漂ってきました。女性からは甘い匂いがすると言いますが、一反木綿の場合も同じなのでしょうか。彼女からの匂いはシャンプーではなく柔軟剤の匂いなのかもしれませんが。
会社までの短い道のり、彼女と他愛もないおしゃべりをして歩きました。
「雨が降っても歩くのは大変なんじゃないですか?」
「吸水性が高いので、あっという間に重くなって浮けなくなってしまいます。傘は必須です。あとはタクシーを使ったりしますよ」
だとか
「空を飛んで移動したりはしないのでしょうか」
「目的地に降りることが難しいのです。約束のあるときは専ら電車をつかいますね。人だってどこに行くにも徒歩というわけにはいかないでしょう?」
だとか
「このあたり、お昼の美味しいお店はあまり多くないのですが、そこに見える喫茶店のビーフシチューは格別なんです」
「なるほど。帰りに寄ってみようと思います」
だとか、仕事にも関係ない本当にただのおしゃべりでした。
いつもの道のりはあっという間で、すぐに会社についてしまいました。彼女を受付まで送り、わたしは自分のフロアに向かいます。
彼女が笑顔で
「ここまで助かりました。ありがとうございます」
と言ってくれたので
「こちらこそ。お話できて楽しかったです」
と伝えてから、ふと思い出して彼女の耳元に近寄り
「あの、今日のこと、noteというブログのようなwebサイトに書いてもいいでしょうか。一反木綿の友人がいないので、記事にしてみたいのです」
と小声で聞きました。彼女も同じように
「あとで読ませてくださいね」
と八の字眉毛で笑うのでこうしてここに書いてみたのです。
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