第5話 「未来と勇気の放課後」
「異議あり、です!」
力強い声に顔を上げると、真っ直ぐ右の手を挙手した佑希君が、熱のこもった眼差しで私をじっと見つめていた。顔はわずかに上気しているようで、赤くなっている。その迫力に呑まれて、私は思わず「は、はい…佑希…君?」とうかがうように答えると、佑希君は勢いよくガタッと椅子から立ち上がり、
「未来ちゃんに出来損ないってなんだよそれ!いくら未来ちゃんのおばあさんでも許せないよ!見る目なさすぎでしょ、あー、もう!腹立たしいな!」
言っていいことと悪いことの区別もつかないのか!俺、今度お会いしたとき笑顔で挨拶する自信ないよ!と佑希君はひとしきり吠えると、我に返ったのか、ハッとしたように身体を小さくして椅子に座り直した。こんなに怒っている佑希君を見たのは初めてだった。
「ごめん。未来ちゃんの大切なおばあさんのこと、悪く言いたくはないけど、それはさすがに見当違いも甚だしいし、あまりにも思いやりを欠いた発言だと僕は思う」
「ありがとう、佑希君。でもね、そんなこともないんだよ。おばあさまは正しいご判断をされているわ。だって、おばあさまは私が生まれた頃からずっとそばにいてくださって、私のことを見てくださっているの。つまり、本当の私、を一番良くご存じなのよ。そのおばあさまがおっしゃるんだから間違いないわ。それに、何不自由なく育てていただいて、恵まれた教育まで受けさせていただいているのに…私は…おばあさまの期待にも応えられない、お母さまにも悲しい顔をさせる、そのうえ………」
驚くほど滑らかに言葉が出てきたのに、ここで一瞬、詰まってしまった。佑希君に幻滅されるのが、怖かったからだ。
「……私は自分が努力してるからって、人が自分よりできない存在だと勝手に決めつけてクラスメイトを見下してしまうような嫌な子なんだよ。…社会学の本を探しにきたのも、純粋な知的好奇心からじゃない。できなかった自分が恥ずかしくて、周りから見くびられたくなくて、自分のちっぽけなプライドを守るため、だったんだ………」
言葉にすればするほど、気付きたくなかったことや考えたくなかったことがはっきり浮かび上がってきて、次々と眼前に突きつけられていく。涙がまたぽろぽろこぼれはじめた。
「未来ちゃんは、出来損ないでも、嫌な子でもない。未来ちゃんはとっても素敵で、魅力的だよ。僕が断言する」
佑希君は、自分の言葉に一切の疑いをもっていないかのように言い切った。
嬉しいはずなのに、なんで……苦しい。身体のどこか奥の方から、ざわざわして、耳鳴りが…
佑希君は私に、気を遣ってくれているんだから。抑えなきゃ。ぐっと奥歯を噛み締めたけど、耳鳴りはどんどんひどくなって、がちゃんと何かが壊れる音が、した。
「いい加減なこと言わないでっ!佑希君はっ、優しいから…本当の私を、知らないから…!」
喉の奥から絞り出した低く、掠れた私の声。悲痛そうな佑希君の表情。言いたくても言えなかった気持ちがせきを切ったように溢れ出て、鋭い言葉に姿を変える。
「だからっ!私は…私は!おばあさまに認めていただかないと意味がないの!先生方や、他の子がどんなに褒めてくれたって、おばあさまから言わせればそれは正しい評価じゃない……私は、笠原のお家の名を汚した、はじ、さら、し…だって…」
恥さらし、を口にした瞬間、もう何度聞いたかわからないおばあちゃまの不機嫌なため息が聞こえたような気がした。
――どうしてあなただけ不合格なのかしらね?どこがいけなかったのかわかりますか?
――ご近所の方々になんと言えばいいのかしら…ああ、お弟子さんが減ったらどうしましょう。
――未来、お年賀の集まりは末席でおとなしくしていなさいね。
「佑希君にはわからないでしょ。私、家の中にいるのが一番つらいの。大好きな家族に囲まれているのに、一番苦しいの。どうしたらおばあさまが喜んでくださるか、いつもいつもいつも先回りして考えて………私は、ただ……みんなに、笑って欲しくて…喜んで欲しくて、そのためなら…」
ああ…私、優しく手を差し伸べてくれた佑希君になんて言い方をしているんだろう。
最低だ。今の私の顔はきっとみにくく歪んでいる。見なくたってわかる。
いたたまれなくなった私は荷物を乱暴につかみ、「ごめんなさい」とつぶやき、退室しようとドアに向かったその時。
「待って、未来ちゃん!僕の話を聞いて!」
佑希君がドアの前に立ち塞がった。
「……近すぎるからこそ、歪んで見えてしまうことも、あると思うんだ」
ぽつりと、佑希君はそう言って、私がさっきまで座っていた椅子の方に腕を差し出し「座って」という仕草をする。佑希君の訴えかけるような眼差しに、私は素直に従った。佑希君はほっとしたように息をはき、自分の席に戻る。
「未来ちゃんのおばあさんは確かにすごい人かもしれない。未来ちゃんをずっとそばで見てきて、大切に育ててくださったかもしれない。だけど、そのことは、必ずしもおばあさんが未来ちゃんを正しく評価できるかどうかの理由にはならないと思う。
期待が強すぎて、大きすぎて、未来ちゃんの良さはおろか、未来ちゃんがどんな思いで努力してきたのかっていう気持ち、まったく見えてないじゃないか。僕には、ただ、未来ちゃんに自分の理想を一方的に押し付けて、勝手に失望して、なじっているだけにしか思えないよ。
それに、本当の未来ちゃんっていうけれど、さっき、あんなにつらそうにしていた未来ちゃんだって、『本当の』未来ちゃんじゃないの?」
語気強く、佑希君が問いかける。
口を開きかけるも、否定も、肯定の言葉も出てこず押し黙る私に、佑希君は私の目をじっと見つめ、微笑みかけた。佑希君の目は、やはり澄み切っていて、綺麗だな、なんて私は場違いな感想を抱いた。
「未来ちゃんは、おばあさんの期待に応えるために、生まれてきたんじゃない。未来ちゃんのおばあさんの望む通りの人生を歩むために、生まれてきたんじゃない。未来ちゃんは、未来ちゃんの人生を生きなきゃだめだ。おばあさんに…家族に喜んで欲しいのは僕だってわかる。僕も、家族のことがすごく大切だから。でもね、未来ちゃんのいう、『おばあさんに喜んでもらうこと、期待に応えること』は、未来ちゃんの心の声を無視して、自分を押さえつけていることに変わりないよ。……少なくとも、未来ちゃんのお母さんは、そんなこと、望んでない」
佑希君の口からお母さまのことが出てきて私は心から驚いた。
二人に接点なんてあっただろうか。私が訊ねるよりも早く、佑希君はその疑問に答えてくれた。
「実はね、もう随分前…たしか、未来ちゃんが二年生になりたての頃だったかな。たまたま、僕が下校している時に未来ちゃんのお母さんに会って、話しかけられたんだ」
――青桐君…ですよね?いつも未来に優しくしてくれてありがとう。未来から、あなたの名前はよく聞いていたの。
ご存知かもしれないけれど、未来は…小学校受験に失敗して…。それは、決して未来のせいではなく、本当にご縁がなかっただけだと私は思っているんだけど、あの子は責任を感じて、本当に健気に努力をしてくれているの。
未来は一見、気難しく見えるかもしれないし、実際、扱いづらいところもあるかもしれません。でも、心の優しい…親の贔屓目かもしれないけれど、本当に、ほんとうに良い子なので、どうか、あの子とこれからも仲良くしてやってくださいね――
お母さまと交わしたという言葉を佑希君は丁寧に語って聞かせてくれた。
知らなかった。お母さまがそんな風に考えていらっしゃったなんて。
「それにね」
そう言って佑希君は茶目っ気たっぷりな表情を見せた。
「僕から言わせれば、未来ちゃんは出来損ないどころか、ちょっと『出来過ぎ』なくらいだよ。『出来過ぎ』君じゃなくて、『出来過ぎ』ちゃんだね」
「…それ、主人公からしたら、結局いけすかないキャラじゃない?」
青い猫型ロボットにすがりつく丸い眼鏡の少年を思い出し、私は少しだけ頬を緩めた。「主人公は未来ちゃんだから関係ないよ」と言って、佑希君も笑った。
「さっき未来ちゃんはさ、人のことを見下してる、嫌な子だって言ってたけど。受験は、難関であればあるほど、否応なく競争や序列争いに身を投じることになるからさ、やっぱり順位を気にすることは自然だと思うんだ。ましてや、未来ちゃんみたいに努力しているなら、なおさらね。
本当に嫌な子だったら、見下していることに罪悪感なんか覚えないよ。自分が見下しているっていうことにすら気づかないかもしれない。
未来ちゃんのは…なんていうか、見下していたというより、自分の立ち位置の確かさを確認するために、人との差を意識していたんじゃないかな」
自分の立ち位置の確かさの確認と言われ、そうかもしれないな、と思った。
証明することに必死だった。おばあちゃまにお認めいただける私であるために。
自分だけではどうすることもできなかった、絡まりきった糸を、佑希君が丁寧にほどいていく。
「未来ちゃんが思ったことを、少しずつでいいから、言えばいいと思う。言えるときに、言えるだけ。おばあさんを基準にするんじゃない。未来ちゃんが思ったこと、感じたこと、でいいんだ。僕は、学校って…教室って、優秀さの確認をするための場所じゃなく、それぞれの違いを知って、それを楽しむための場所なんじゃないかって思うんだ」
たとえばさ、と前置きして、佑希君は続ける。
「同じクラスで同じ授業を受けていても、感じ方とか、気になるポイントは人それぞれでしょ?何に疑問を感じるのか、どういうところに面白さを感じるのか、みんな違うはずだよ。自分ひとりでは気がつかなかったことに気がつくチャンスが、たくさん溢れていると思うんだ」
佑希君は、すっかり机と同化していた社会学の入門書をめくり、とあるページを私に開き見せた。
「今日、未来ちゃんが授業で習った社会学はさ、きっと、新しい世界の見え方を教えてくれるんじゃないかな」
眞家さんが立ち上げようとしている「社会学部」がふいに頭をよぎった。
彼は、おそらく私には見えていないものが見えている。それは一体どんな世界だろうと、少し、知りたくなった。
ピピピッ!ピピピッ!
突然の電子音に私の思考は遮られる。
佑希君は室内の壁時計に目を遣り、慌てた様子で言った。
「ああ!もう退室十五分前か。未来ちゃん、塾、間に合いそう?」
どうやら先ほどの音は予約終了時間が間近であることを知らせるアラームらしい。
「あ…うん。今からだったら、本を借りる余裕もあるし、大丈夫だよ」
「よかった。じゃあ、そろそろ出ようか。……ごめん、僕、今日は勝手なことばっかり言って…」
「ううん、そんなことないよ!私の方こそ、取り乱したり、心ないことまで言って、本当にごめんなさい。でも、佑希君とお話できて私、……」
変われそう!と言うには、まだ自信がもてなかった。
けれど、この時間が、佑希君が、私を勇気づけ、元気づけてくれたことは確かだった。
「嬉しかった、本当にありがとう」と佑希君に頭を下げる。
「未来ちゃん。…俺は、未来ちゃんの受験、応援してるし、合格して欲しいって心から思ってる。でも、そのことと同じくらい…いや、それ以上に、未来ちゃんが『したい』って思うことを、して欲しいって思ってる。
おばあさんのこと、家のこと、今すぐに変えるのは難しいだろうし、未来ちゃんの中でも、受験合格は大きな目標になっていると思うから、俺は、止めない。ただし、本当はつらかったら、やめてもいいと思う。もし、受験をやめることを決断した時に、おばあさんを説得できそうになかったら、俺を呼んで。すぐにとんでいって、俺が一緒におばあさんを説得するから。俺が味方だってこと、忘れないで」
ああ、やだなぁ。また、泣いてしまう。
だけどこの涙は、私が生まれて初めて流す、嬉し涙だったのだ。
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