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ビスケットと、マリアのこだわりと。

森茉莉をご存じだろうか。

文豪、森鴎外の長女であり、50歳を過ぎてから作家としてデビュー。エッセイや小説を中心に異彩を放つ。食への欲求が人一倍強く「貧乏なブリア・サヴァラン」と自身を称した。そんな彼女は著書の中でビスケットについてこのように記している。

”ビスケットには固さと、軽さと、適度の薄さが、絶対に必要であって、また、噛むとカッチリ固いうえに脆く、細かな、雲母状の粉が散って、胸や膝に滾(こぼ)れるようでなくてはならない。そうして、味は、上等の粉の味の中に、牛乳(ミルク)と牛酪(バタ)の香いが仄かに漂わなくてはいけない。また彫刻のように彫られている羅馬(ローマ)字や、ポツポツの穴が、規則正しく整然と並んでいて、いささかの乱れもなく、ポツポツの穴は深く、綺麗に、カッキリ開いていなくてはならないのである。この条件のどれ一つ欠けていても、言語同断であって、ビスケットといわれる資格はない。ヨークの薔薇のような英国貴族の娘の、白い歯に齧(かじ)られる資格はないのである。”(※1)

とまぁかなり手厳しい。もしまだ彼女が存命のうちに某フライドチキンチェーンで提供されている分厚く膨らんだ、スコーンのようなビスケットを見たら、さぞかし憤慨したに違いない。

私などは1枚のビスケットにこれほどの条件を求めたこともないし、連想するのは「ポケットのなかにはビスケットがひとつ(※2)」というフレーズの童謡がせいぜいなのだが、それでもビスケットには他のお菓子にはない優等生的な印象を持っている。だからビスケットを頂くときは小ぶりな白磁の皿に3枚ほど整然と並べ、持ち手の小さいウェッジウッドやらのカップに紅茶を注ぎ、きちんと卓につき、行儀よく少しづつ齧る。「食べる」のではなく「頂く」のである。立ったままや漫画を読みながら口にしたことはあまり記憶にない。どうやら居住まいを正させる力がビスケットにはあるみたいだ。

森茉莉に惹かれ、同じ文章を何度も、何度も読み返しては、その度にマリア(=森茉莉は著書「貧乏サヴァラン」の中で自身をたびたび“マリア”と呼んでいる)はどんな人物だったのだろうと夢想する。誰もが知る文豪の娘として生まれ、厳格でありながらも一風変わった家風の中で育ち、戦前の家父長制社会の中で2度も離婚をして、当時(1957年)としては晩年(54歳)から物書きを始めた自立した女性である。とはいえ、その創作活動は左団扇のご婦人の道楽ではない。わずかな原稿料が糧の細々とした暮らしぶりが伺える。そんな姿が今の私自身につい重なってしまう。

マリアが逝去したのはバブル景気真っ只中の1987年である。気品にあふれていた明治の御代から、街も人もそして大好きなお菓子ですらも、変わり果て、失われていった世情を彼女はどんな気持ちで見つめていたのだろうか。若かった私はマリアのことはまだ知らなかった。同じ世界にいたことにもっと早く気づければよかったとは思うが、その頃の私ではマリアの言わんとする何たるかを受け取ることはきっと難しかっただろう。ビスケット同様にマリアの文章はその読者すら自覚的に選別していくのだから。

ビスケットにはもう一つ思い出がある。子どものころ、ビスケットをつかったお菓子を母が作ってくれた。テレビで黒柳徹子さんが紹介していたのだ。森永のマリービスケットの間に泡立てたホイップクリームを挟み、ビスケットを立てた状態で横に並べる。そうして最後に残ったクリームで全体を包み、ラップをして冷蔵庫に入れておく。一晩もいれておくとホイップクリームの水分がビスケットにしみ込み、独特な味わいになる。

生クリームケーキが頻繁には買えなかったから、私はその「ケーキもどき」を喜んで食べた。山ほどのクリームとふにゃりとしたビスケットの感触、そのボリュームが何よりも好みであった。

後年、同じものを作り、妻に供したが、彼女の口には合わず一皿も食べられなかった。ビスケット自体をそれほど好まなかったこともあるが、何より子どもの頃から洋菓子店の生クリームケーキを豊富に食べていたので「美味しいもの」としては受け入れられなかったのだった。妻にも「ケーキの定義」があるのだ。もっとも身近な人の好みであっても、案外わかっていないものだな、と思った。

果たして、マリアもそのような「ケーキもどき」ビスケットの食し方を断固拒否したに違いない。育ちの違いはあれども、好みはとはそういうものだ。誰かに口出しされたくない、侵されたくないものが必ずそこにはある。ビスケット1枚にあれほどのこだわりを見せたマリアであれば妻の心情もきっと理解してくれるに違いない。その生一本の性格が文章にも現れている。

工業デザイナーとして自立している妻も生真面目でこだわりが強く、そして純粋だ。その気質は私にはない。マリア同様、そこに私が惹かれているのだろう。

(※1)ちくま文庫 早川陽子編 貧乏サヴァラン より引用

(※2)ふしぎなポケット 作詞:まどみちお 作曲:渡辺茂

カバーがボロボロになってしまった「貧乏サヴァラン」。マスキングテープで直したりして今も愛読中です。

イラスト:月猫さん

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