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台所はシェルター

この間、久しぶりに梅仕事をしました。

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最後に梅酒を仕込んだのが2008年でしたので、およそ13年ぶりの仕事でした。とはいっても、梅酒の仕込みって特別に難しいことはなくて、

・スーパーで買ってきた青梅をよく洗う。

・水気を拭いてヘタをつまようじで取る。

・保存容器に入れ、ホワイトリカーと砂糖(氷砂糖や果糖など)を入れる。

・蓋をして冷暗所に置く。

・たまに様子を見てガス抜きをする。

・3か月くらい過ぎたら飲めるようになる。(1年くらいが本当はベスト)

という段取りです。

上の画像の右下の茶色いものは前回漬けた青梅で、お腹の調子を整えるためにそのまま食べたり、果肉を取って梅ジャムにしてみたり、ウィスキーや市販の梅酒に入れてみたり。

今でも美味しくいただける青梅は10年以上前の過去からの贈り物。小さな瓶の中に大切に閉じ込められた当時の空気や思い出が、すっかり色の変わった青梅を齧るたびによみがえってくるような気がします。

台所(キッチンと呼ぶのはなじまないので)に立っていると頭の中がいつもすっきりしてきます。

例えば夕食の主菜・副菜の組み合わせや栄養バランス、何より楽しんで食事をしてくれる妻を思い浮かべながら過ごす時間は日々の煩わしさや生活の悩みを一瞬ではあっても忘れさせてくれます。

野菜を洗う、切る、肉を切る、混ぜる、炒める、スープを仕込む、麺をゆでる、盛り付ける、食べ終わった食器を洗う。ただ食べるため、そのために台所に立つのですから、他の事を考える暇がないのです。

そうして料理を食べ終わり、お腹が満たされた後、それまでの悩みを忘れていることもあります。あったとしても「まぁ、何とかしてみるか」という前向きな気持ちになっている自分がいます。

台所は僕にとってシェルター(避難所)なのです。

先代の愛犬(ミニチュアシュナウザーのガブさん)が亡くなった3年前、亡骸を抱きしめながら僕と妻は一日中泣き腫らしていました。けれども悲しみに打ちひしがれる中であっても、やはりお腹は減るのです。

食べたものを思い出せませんが、何か簡単に作って食べた記憶があります。荼毘が住んで家に戻った僕は台所に立ちました。その日くらい買ってきたもので済ませてもよかっただろうに、台所に立つことで絶え間なくあふれてくる悲しみから逃れようとしていました。

思えば僕のそばにはいつでも台所の営みがありました。母は実家の小さな台所で家族のためにたくさんの料理を作り、もちろん時代もあったのでしょうが、出来合いの総菜はほとんど食卓には上りませんでした。好きなものも、苦手なものも、そうやって食べさせてもらってきました。

母が一度だけ、泣いているのを見たことがあります。台所に立ったまま、僕が聞いたことのない声を上げて泣いていました。けれど次の朝には何事もなかったかのようにご飯とみそ汁と弁当を用意してくれたのでした。そんな姿を見て成長してきたことが僕を台所に引き付けている一つの理由なのかもしれません。

喜び、悲しみ、苦い経験。僕もかつての母と同じように台所のカウンター越しにそれらを見つめてきたように思います。生きて、暮らしていれば、いろんなことがありますし、思い通りにならないことも本当に多いです。

けれども、その日食べるものを手づから作ることだけは僕を裏切ることがありません。それは自分のお腹だけではなく心をも満たし、癒してくれます。だから、僕は今日も台所に立つのです。

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イラスト:まぽさん

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