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理解したくないけど理解してしまったかもしれない事。

一つ目

最近思うことがあって、でも絶対に大きな声で言えないようなことをどんどん理解してきた。これも人に向けて発信するものの宿命だろう。

さて、では…ここからは見たい人だけ見てくれるといい。
我々は最近効率という物を考えて生きてきている。

それはどれだけ取り繕っても意味がない事なのではっきり言ってしまうと社会全体が貧乏で体力がなくなってきているからだと思う。

そして、その効率を考えるということとはどういうことにつながったのかということをここに書こう。もちろん手前に注意として入れるがあくまでも僕の中個人の意見であると同時に批判的な意見ではなく第三者視点から俯瞰して見えた事。ととらえてほしい。

さて、最近怒る人がめっきり減ったなと思うのである。
もちろんそれは主張を大きくしない日本人の特色ととらえることもできるが、こと最近違和感を覚えたのである。そして昨日ふと思ったのだ。もしかして効率という奴ではないかと。

最近の若い人は自分の興味のない物にはそれもいいよね!と言って離れていく傾向にあるらしい。それってつまりは怒るまたは呆れるなど…拒否反応すら出すことを避けているということ。

それってどういうことなのかというと。自分の見たいものしか見えない視野の狭い人間が出来上がるということである。彼らには是非もっと主張をしてもらいたい。気が付けば主張する側の言いなりになる世界になっていないことを切に望む。一つ目はこのぐらいにする。

また別な事を気が付いたことがある。
今度は二つ目だ。

二つ目

発信する側に立ってわかったことがある。
 最近の人たちは上記の理由で自分が興味を持ったもの以外には興味を持たないという前提で話す。そして僕もオタクの一人であり。古のキモオタの部類である。という前提で話すがどうにもオタクという言葉がファッション的に扱われていくような風潮になってから久しく。久しぶりにオタクという言葉がキモさが増してきた。昔の女子高生がオタク=キモイと言っていた言葉の一端の節々におそらくだが予測が付いた。何やってるのかがわからなくてキモイ。というのが世の中の通説だが…。

 おそらくだが僕の考え的には同じ趣味ばかりに偏っていてキモイ。という話なのだろう。もっと我々のような女性にかまけるとかあってもいいじゃないか。構ってほしいんだが?何楽しそうにしてるんだよ!と彼女らは自分の立場から見て物事を言っている節もあると思ったのだ。(ちょっと色目が過ぎるのは割愛)

 同じ物事ばかりに傾倒しているのを見るのは確かにキモイだろう。執着の一つであるから。彼女たちから見て自分がその世界からのけ者にされているという気持ちからキモイという言葉が出てきたのだろうと思うと。少し腑に落ちたのだ。

 考えてみれば本当に興味のないものにはキモイというより目の端々にすら映らないだけなのだと考えると彼女たちの心の中にあるのは宗教的に一つの物をあがめて同じものだけしか見えない姿にキモイといっていたのかもしれない。

さて、ここまで語っておいて最初の一つ目に戻るのだが。なんとオタクが原点回帰し始めたということだ。自分の好きなもの以外見えないという点だ。まさにオタクである。

昔と今の違い

昔のオタクと今のオタクの唯一無二の違いがある。
それは、社会的余裕に尽きる。

昔は好きなフィギュアがあればそれに向けてちょっとバイトして買うなんてこともできたが。今や金を見なくなって久しい。金の鳥たちは一瞬家に泊まっていって次の日には渡り鳥のように飛んでいくのである。

今のオタクは余裕がない。だから拒否反応を避ける。
怒るのを避ける。人付き合いを避ける。

という点を今回僕なりに理解してしまった。という話だった。
願わくば景気の良い頃の古のオタクが増えないかなぁとか思ったり。

尾張

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